虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「亡国のイージス」

toshi202005-08-05




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うーん。なるほどなあ、と思った。これはね、いいですよ。今年公開された福井晴敏原作の映画、俗に言う<福井三部作>の中では、一番好きだなあ。
 原作は未読なのだが、俺が福井晴敏という作家に持っていたイメージは「情緒的なメンタリティを持つ作家だろう」というものであった。三部作という位置づけにおいての前2作といえる「ローレライ」にしても「戦国自衛隊」にしても、娯楽作でありながら、キャラクターは自らの観念的な信念やら主張やらを大仰に語り、日本はどうよ、戦後民主主義社会、及び教育ってどうよ、とひたすら問いかけてくる。そして、日本ののど元に切っ先を向けて、答えを求める。福井晴敏の個性を尊重したがゆえに、前2作はそういう作風になったものだと、俺は認識していた。そして本作である。


この映画を、前記のような認識に立って見ていた俺は、多少の驚きを禁じ得ずに見ていた。


イージス艦が某国のテロリストに占拠され、弾頭を積んで東京へと向かう。その現代日本ののど元に切っ先を向ける、という状況自体は、前2作と同じである。だが、この映画は、その切実感があまりにも違う。娯楽映画なのに、怖い。あまりに怖いのだ。


亡国のイージス」という物語で重要なのは、防大生が書いてネットにアップしたある論文である。このあまりにも情感的な愛国的文章を、その状況の発端として提示する。だが、その情緒に物語が流されることはない。いや、出てくる登場人物たちはその論文がきっかけとなって生み出された状況に振り回されている*1が、映画はその思いを描くことよりも、その状況を提示することにこだわる。
 その状況にそれぞれが命がけで関わっていく姿、それを実力派として鳴らした俳優陣の演技によって体現しつつも、彼らが抱えたそれぞれの信念や背景についての描写は極力省かれ、端的に示されるのみである。
  繰り返すけど、この映画が描こうとしているのは、「亡国」がどうのというイデオロギーではなく、実弾を積んだイージス艦が東京へ向かうという状況そのものであるし、それをどこまでストイックに提示できるかが、この映画の肝だと思う。それは、脚本に「ホワイトアウト」を手がけた長谷川康夫氏を起用したり、編集を阪本監督本人が手がけるのではなく、あえてウィリアム・アンダーソンという、日本の情緒的イデオロギーに無縁な人に預けたことにも見てとれる。そしてその目論見は、正しかったと俺は見る。
 福井晴敏が描いたであろうキャラクターの情感の描写を省くことで、状況は切実感は増していく。余計な情報が遮断されたことで、逆に登場人物の台詞が一段と凄みを増すのである。中井貴一演じる北朝鮮某国工作員の放つ「よく見ろ日本人。これが戦争だ。」という一言の異様な重さ。状況としてはたった一隻船が沈んだだけなのに、異様な空気が広がる。


「よく見ろ日本人。これが映画だ。」である。


無論傑作というには、いささか舌足らずな部分があるし、映画をタイトにしようとしすぎて切りすぎな感はある。だが、この映画が示した志は、映画力を信じる人々のそれである。一娯楽作でありながら、それを超えようとする。そこに見える作り手の青くゆらめく炎のような情熱を感じる。
一人の若者の、青臭い熱情が書かせた「亡国」についてのレポート。その一本のレポートが生み出した、あまりにも馬鹿馬鹿しく虚しい状況。そこに切り込み、その「戦争」特有の虚無感すら観賞後に感じさせる。
映画はここまで出来る。ここまで描けるのだ。
この映画自体が、日本映画界に突きつけられた弾頭のようにも、俺には思える。(★★★★)

*1:付け加えると、登場人物たちが論文に「共鳴」して事を起こしたわけではないということ。そのことは原作者の福井自身が明言している。青年の熱情はあくまでも事件の「きっかけ」に過ぎないのである。