虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

映画は人を変えなくてもいい。


絶叫機械+絶望中止-「エンタテインメント」は免罪符ではない。
http://d.hatena.ne.jp/screammachine/20060227#p1


要約:映画は娯楽であるべきだ。しかし、政治的テーマを扱った映画の場合は、そのテーマを含めた思想そのものが娯楽の対象である。よって、含まれる「政治的テーマ」もしくは「思想的テーマ」を楽しめないならば、それは映画を楽しんだことにはならない。映画を楽しむためには、政治的偏向を捨て去るべきである。


このエントリ、つらつら読んでて「ふむふむーむずかしいこといってんなー」とか思ったりした。いや「ぼく、のうみそちっちゃいからなにいってんのかわかんなーい」と言ってるんじゃなくて。なんか難しく考えすぎなんじゃねーのかな、と思った。


 人って変わろうとしなきゃなかなか変わらないだろう。変化を望もうとしなければ変わらない。それはあくまでも、その人の「意思」の問題だろうからだ。
 「ホテル・ルワンダ」を多くの人が見て、多くの意見が出てくるのは健全だと思う。そして、「ルワンダ」を見て差別の種をその人が見つけられなかったとして、それが非難の対象になるわけでもないだろうと思うのだ。
 町山さんに喧嘩売った彼(彼女)は、「かわいそうな子だな」と思ったけれど、「正直な子だな」*1とも思った。


 こういうたとえ話は好きじゃないが。




 あるところに、「ホテル・ルワンダ」を見たくてどうしようもないお父さんとお母さんがいて、ふたりで見に行こうということになった。しかし、二人には幼い息子がいて見に行けない。よそに子供を預けることもできないし、二人とも忙しくて映画に行ける日は、今日くらいしかない。


 で、仕方なく子供と一緒に見たとする。
 そのとき、子供は何を感ずるのだろうかな。面白がるのだろうか。一生消えないトラウマになるのだろうか。ま、それはともかく、その見た子供がさ、果たして「自分の中に差別の種を感じる」なんて考えが起こるのかな?と考えてみる。
 俺が考えるに、たぶんそういう思考は起こらないだろうと思うんだよね。それはこの映画を見て変化することをを望んでいないからだ。ただ、目の前のスクリーンで起こっていることに感情を示すのみだろう。



 
 俺が言いたいのは、変わろうとしない人に「変われよ」って言ったって無理な話だ。ということ。映画は変わろうとする意思のある人の背中をぽんと押すくらいはできる。だがそこが精一杯。関の山だろう。あのマイケル・ムーアだって変化を望む人々を喚起することはできたが、変化を望まない人々は、結局動かせなかった。



 それが映画の限界だ、と俺は諦観とともに、あえて言う。



 けれども。俺は映画に絶望していない。



 俺が映画を見る上で一番正しいと思うのは、政治とはなーんも関係なく娯楽を楽しめる感性だ。俺はあるニュースのインタビューで、韓国の女子高生が「日本てサイテー」と答えたその口で、ハウルの動く城はどうだった?と聞かれ、「ハウルサイコー」「かっこいー」と答えるのを見た。


 これこそが、正しい娯楽との向かい合い方だと、俺は思う。


 無論、俺も「ホテルルワンダ」からはいろんなことを学んだ、と思ってるクチだ。だが、それでなにも学べなくたっていいじゃん、とも思うのだ。ハラハラドキドキを楽しめたというのなら、家族って大事だなー、と実感できたってんなら、それでもいいんじゃないの、と。


 例えば、戦争は反対だけど、戦争映画の戦闘シーンは好きだ、という人がいる。殺人がこの世からなくなればいい、とは思うけど、ガンアクションは大好きだ、喧嘩はしたことないし痛いの嫌だけど、カンフーアクションはちょー燃える!不倫はいけないと思ってるけど、メロドラマは大好き!・・・という人々もいるわけですよ。
 そういう人々の、信条から外れることすら引き受けられることこそが、映画が持つ真の可能性であり、映画を楽しむ上で健全な状態だと思う。


 俺ははね、嫌韓の人から、「殺人の追憶」サイコーという声を聞いてみたい。「韓国人は嫌いだけど、韓国映画サイコーだよね」という声が聞きたい。その人の信条や差別感情などとは別のところで映画が楽しまれた瞬間が、映画の勝利だ。そう思うし、そうなることを願っている。

*1:必ずしもいい意味で、ではないけれど