虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

映画は人を変えなくてもいいんじゃねっかな。


http://d.hatena.ne.jp/screammachine/20060228#p4


 丁寧な反論・・・じゃなくて反証をしていただいたので、まあ、つらつらと。


 だからその意思をかたち作るのは何か?と問うておるのだ。脳は得た情報をもとに思考を組み立てて意思を選択する。望もうとしなくても変化は起こる、絶対に起こる。起こった変化に対してどう対処するかは、ひとそれぞれだ。

 絶対に起こる・・・かどうかは。可能性は生まれる、くらいだと思うがどうだろう。それに、人間は忘却する生き物だということを都合良く忘却してない?下手したら今日の夕食をなんにするか、という時点で忘れるもんだよ、人間。


その感情が「隣近所の奴を殺す可能性がおれの人生にもあるのだ」であってなぜおかしいか。だいたい徳保氏も子供を例えに出していたが、子供はそんなに頭が悪いとでも思っているのか、失敬な話である。
 いや、そこまで思考化できる、よく出来たお子様を俺は不幸にも出会ったことがない。あなたの言う子ばかりだったら、教員やってるうちの母もさぞかし楽であろう。


その通り、人生にはあきらめも肝心だ。あなたが「変わらない」という信念を持ち続ける限り、あなたの視界には変わらない風景がうつる。


信念じゃないってば。現状認識だってば。ムリに言って聞かせて変わる現状があるなら俺にも見えるだろう、という信念なら、ある。


 それは、ハウルを作った宮崎駿個人とジブリって会社と日本という国を区別できているだけであって、映画を楽しむ上で自己の矛盾を放置しているわけではないと思う。

 なんで、「作品そのものを純粋に楽しんでくれた」とは考えないのかな。素直になろーよ。この場合。


だからそういうひとたちは(おれも含めて)殺しているさまを見ている瞬間はその意見に賛同しているわけですよ。


 んなわけない。そうじゃなくて、人間というのは簡単に矛盾する可能性を秘めているんですよ。差別のタネと同じくね。暴力が嫌いな人でも、暴力振るう可能性ないと言い切れないのと同じ。


 そんなものは勝利でも何でもない。

 なぜならあの映画は、戒厳令下での殺人事件を描いたあの映画は、韓国の暗部を描いた悲劇だからだ。ここで挙げるべきは韓国の正義を掲げていながら優れた映画的要素を持つ反日映画だろう。


おれ、純粋な反日映画を嫌韓の方々が見る可能性の方が低いと思うんだけど。せいぜいネタにするために見て「プゲラ」でおわりでしょーが。俺は、そういうの関係なく、映画の魂である物語が楽しまれるのが一番いい、と思ってるだけなんだってば。「殺人の追憶」は(俺が見てきた)韓国映画の中でもっとも優れた「物語」を見せたから例に挙げたのだよ。



ただそれが「隣近所で殺しあうのは正しい」と考えるひとにとっては、単なるエンタテインメントで済ますべきものだっただけで「政治的に正しいメッセージ」かどうかと問われると……いや、正しいに分類されちゃうんだろうな。それで「正しい」というだけで無批判に受け取る方がいらっしゃるのも理解しているつもり。いつも忘れちゃうけど。うそ、意図的にいないことにしてる。たまに思い出して批判したりしてな。

 説明不足はこっちの方で、それは前の方で反論させていただいたtoshi20氏とあわせて謝らせていただきたい。申し訳ない。


 まあ、私も論争って苦手っつーか、言葉足らずなところがあるんで、他人をどうこうは言えないです。

 なんだかんだと、根っこのところで考えていることは同じだと思うので。レスありがとうございました。