虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

デビルマン騒動について。

 いやまあ、デビルマンである。ネットもどこもかしこも「デビルマン」。ネット界隈で映画の話題と言えば「デビルマン」、ということで、もはや東京ファンタもすっかり影が薄くなってしまった感すらある。
 まあ、観た人間は「もう忘れたい」と思っているだろうから、この騒動は観ていない人間が「どれほど酷いのか」という想像力で騒いでいるだけのように思う。


 確かに、どこが悪いのどうのこうのを指摘する気も失せる映画であったことは言うを待たない。
 でも、「デビルマン」はたしかに「極めてつまらない」映画ではあるが、ことほど騒動が起こるほど「酷い」、とは私は思っていない。まあ、期待値を極限まで減らして(マイナスではない)観たせいもあるし、どのくらいつまらないかというのをぼんやりとはわかっていて、それを確認する「作業」にしてしまったところもある。
 だが、現在、確立されてしまった悪評の要因は、「デビルマン」という原作が持つ熱量。その熱量が映画が制作されていく過程で、ほとんど「冷却」させてしまっていることだ。そして、その原因は、那須監督の明らかな力量不足及びセンスのなさを、関係者の中の誰も気づけなかったことにある。


 原作の「熱量」を期待すると映画はまさにいきなり全裸で「極寒」の地に放り込まれたような心地になること請け合いである。そういう意味では確かに「酷い」映画ではある。


 ただ、そういう要素をさっ引けば、失笑と幻滅の繰り返しではあるが、退屈はしない。要は那須監督及び脚本の那須夫人が自分の力量を最後まで見誤ったまま、突き進んでしまったせいだとは思うのだが、那須夫妻はベストは尽くしている…はずである。ただ、題材の質・評価・ファンが期待する完成度と、監督自身の力量・センスとの差が開きすぎていて、作っている本人達も途中でわけわかんなくなっちゃっていたのではないか。
 その原因:どんなに全力疾走しても追いつけない。
 監督本人達が作品に満足しちゃっているのは、おそらく周回遅れでトップランナーと一緒に並んで走っているうちに、同格と思ってしまっているようなものなのではないか。もはや(酸欠不足で)力量を計る感覚が麻痺してしまっていたのだろう。


 そう、デビルマンを観たあとの私たちのように。


 この映画の真の凄さは、観た人間の感覚をも変えてしまったことだ。
 例えば、私が迷わず★ひとつくれてやった「CASSHERN」が、「もしかして本当は面白かったんじゃ…」などと思わせてしまうほどの破壊力である。「ヘルボーイ」が必要以上に有り難がられておるのも、おそらく「デビルマン」のおかげであろう。しまいには「CASSHERN」支持派が「ほれみたことか。「CASSHERN」は傑作なんだ」と言い始める始末である。
 「CASSHERN」が駄作だってのは私の中で変わらないし、「ヘルボーイ」だってちょっと面白いアメコミ映画に過ぎない。


 しかし、デビルマンのごとき「極寒映画」を見せられれば、常温だろうが生ぬるかろうが、ホットなのである。


 かくいう私も昨日「鉄人28号」を大変楽しく鑑賞したのだが、後から考えると、色々言及すべき欠点はあったのである。だが、それはもはやどうでもいいことだ、と思わされてる自分に気付いてしまったのだ。
 今や、どれほどの人間が観てきたであろう「デビルマン」。そして誰も叩かれている作品を擁護しない「デビルマン」。世界中を敵に回し、ネタにされ、やがて日本映画史に残る悪夢として語り継がれていくであろう「デビルマン」。
 だが、もしこの映画に価値があったとするなら、「普通」の映画を観る「有り難さ」、「傑作」を観られる「無上の喜び」を我々に感じさせてくれたことなのではあるまいか。


 あと、ちょっと一言。
 このデビ騒動において全く言及されることがないのであるが、この脚本で最終的に映画化にGOを出したのは永井豪先生本人であることを忘れてはならない(つまりデビルマン映画は永井先生の許可待ちだったのである)。つまり、この映画の出来には永井先生にも責任の一端がある。
 那須監督、那須夫人、東映、その他スタッフ・キャストを悪し様に言うのも結構なのだが、原作者もまた、「責任」を追求されるべきであろう。それが例えデビルマン・ファンにおける「神」であったとしても、である。