虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ミュンヘン」

toshi202006-02-06

監督:スティーブン・スピルバーグ
原題:Munich
公式サイト:http://www.munich.jp/


 「軍隊にも君のような男がいた。どんな恐ろしいこともやってのける。(中略)だが、本当に疑念や恐怖を振り払えると思っているのか。君たちが何よりも恐れるのは、『停滞』だ。」



1972年、ミュンヘンオリンピックで起こった、テロリスト集団「黒の9月」によるイスラエル選手団11人虐殺事件が発端となった、イスラエルの情報機関モサドの報復暗殺計画。この映画で描かれるのはその実話を背景にした、一人の男のドラマとその顛末。
 アヴナー(エリック・バナ)は、妻が出産を控えた、イスラエルの普通の若者。モサドに入っている愛国者である以外は。首相以下彼はモサドを仕切る人物たちに呼び出しを受け、極秘任務とその集団のリーダーになるよう言い渡される。その任務とは、ミュンヘン虐殺の首謀者と思われる、11人の標的の抹殺。彼は任務を受け、車輌係のスティーヴ、後始末係のカール、爆弾担当のロバート、偽造書類作成のハンスの4人とともに、上官エイフラハムの指示通り一人一人標的を殺していく。



 70年代のフィルムを編集したかのような質感を見事に表現しつつ、描かれるのは国に従順でそして、自分たちの国と家族を心から愛する平凡な男たちが右往左往しながら任務を遂行していくリアルかつどこか可笑しい姿。そして、任務を続けていく中で抹殺する「標的」を心から欲するようになる姿だ。彼らはたどたどしく、だが確実に、一歩一歩底なしの闇へ近づいていく。「殺し」の愉悦という甘美な罠に惹かれるように。標的を抹殺するたびに。


 もちろん、大筋としては報復の連鎖の悲劇という大きな流れがある。スピルバーグは人の心にある暴力を求める心を否定しない。だから、この映画は面白い。面白いのだ。だが、この映画でスピルバーグが描こうとしたのは、その先。暴力の愉悦に取り付かれた者に何が待つかだ。

 この映画で肝心なのはアヴナー自身の物語が描く、やがて「報復」を行う彼を待つ心の闇だ。上官のいうことを聞かず、軍隊を出すな、俺たちに殺させろ、と食い下がり、情報提供者たちからの「これが引き上げる潮時だ」という忠告を無視して殺しを続ける彼らは、まるで殺しに取り憑かれているようでもある。




 報復する側だった彼らにも敵の報復が待つ。一人一人、誰かが何者かの手によって死んでいく。「敵」がいるであろう見えない闇の向こうに、アヴナーは何を見たのか。それは、おそらく、彼ら自身。殺しに取り憑かれた自分だ。その「自分」たちがいつか、彼らを襲う。そんな恐怖に彼はおびえ始める。


 殺しの連鎖とは、恐怖の連鎖だ。自分の闇を他国の人間に見出し、それに恐怖する。だからこそ、殺しは彼らの中で正当化され、その恐怖は拡散する。アヴナーは映画の終盤、ミュンヘン虐殺の現場を想う。おそらくそのとき、彼が「どちらの側」から事件を見ているのだろうか。「殺された」イスラエルの選手たちの側か、それとも「殺す」テロリストの側か。


 テロリストたちもかつては「普通」の若者だった。だが、いつか、殺すことへの恐れも哀しみも麻痺していく。そして、そのとき、彼らには世界はどう見えているのだろうか。そして、その報復を行うものたちはどうなのだろう。スピルバーグが描こうとしたのは、今と変わらず報復の連鎖で悲劇を増幅する世界と、そんな彼らの見た闇。その一端を観客に突きつけることにあった。


 君、報復することなかれ。そんなスピルバーグの祈りが、この映画にはある。(★★★★★)


追記:モサド抹殺のメンバーの中で良かったのは、キアラン・ハインズ演じる後始末のカール。シニカルな視点とユーモアを併せ持ち、任務遂行でも抜群の存在感を発揮する。実に魅力的。文頭の台詞も彼のもの。彼に比べると、次期007のダニエル・クレイグ演じるスティーブは青二才な感じが抜けない感じがした。ま、そこが彼の魅力かもしれませんが。


追記2:ちょこちょこ加筆修正しています。ご容赦。