虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「宇宙戦争」

toshi202005-07-09




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 「ピカッと光ったと思ったら、そこはもうヒロシマ。」


 あなたが海へ行ったとしよう。そこに砂浜がある。さらっとしていて気持ちがいい。それをそっと手で掬う。


 戦争を語るということは本来、掬った手について、ではなく、掬われた一粒一粒の砂について話をすることだ。


 この映画は、真に戦争についての映画である。「9.11」は戦争に常に関わってきながら強固な「シールド」によって長く戦火を免れてきたアメリカ人に「戦争」を教えた。スピルバーグは知ったのだ。アメリカの掲げてきた「正義」とは、如何に「醜悪」であるかを。
 この映画の「侵略者たち」のように。
 この映画が素晴らしいのは、侵略行為を観客に「俯瞰」させず、主人公たちが目にした「情報」以外、徹底的に統制されることだ。他人からもたらされる情報は「噂」や「妄想」の域を出ず、信じられるのは体験だけ。だが、その体験は絶望的なまでに悲惨。


 バスルームから居間に向かって舞い散る「粉」。
 車に乗ろうと群がる「ゾンビ」たち。
 雪のように舞う「衣服」。
 あらゆる場所に吹き付けられる赤い「液体」。
 「人」が流れる川。
 


 これらの場面を見た瞬間、俺は戦慄した。
 スピルバーグは人類に対して、徹底的な「悪意」を解放する。この映画の脅威は、あまりにもドライで、あまりにも冷徹な敵の目的そのものである。「駆除」。この言葉。あまりにも、そのあまりにも非人間的な言葉。だが戦争とは本来そのようなものだ。たとえ、どのようなきれい事をいっても、その行為はつねに非人間的なものなのだ。戦争に遭遇したその時、人間は「粉」になり、「ゾンビ」になり、「液体」となりうる。


 そして、これらに象徴されるような行為及び事象は、今も地球上で起こっている。我々が見ないで済んでいるだけだ。幸運にも。


 これらの脅威に対して、トム・クルーズは「逃走」を続ける。しかし、彼は「闘っていない」のではない。「闘い続けている」。親として、子を見捨てずに手を引き、抱きしめ、それでも逃走すること。それこそが、父親・トム・クルーズの闘争なのだ。そういう闘いもある。
 「軍隊」すら歯が立たない侵略者と闘う方法はもうひとつある。「テロ」である。それをトム・クルーズは選択しない。だが、この映画はその方法を採った人たちの存在を、ティム・ロビンスで匂わせる。唸った。「テロ」が選択しうる可能性として、アメリカ映画で提出されるとは!なんということだろう!


 人類の傲慢。侵略行為を正当化する大国の醜悪。技術への依存が過ぎる社会。H.G.ウェルズの原作を、これほど見事に読み込んで、現代社会への警鐘として具現化してみせたスピルバーグは、この傑作で真に偉大な監督になったと俺は思う。(★★★★★)