虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「この世界の片隅に」

toshi202016-11-12

監督・脚本:片渕須直
原作:こうの史代この世界の片隅に


ペルソナ5 - PS4

ペルソナ5 - PS4

この物語はフィクションである。
作中の如何なる人物、思想、事象も、全て紛れもなく、貴君の現実に存在する人物、思想、事象とは無関係だ。
以上のことに同意した者にのみ、このゲームに参加する権利がある。


同意する/しない


ゲーム「ペルソナ5」より。

 私は、ついこの間まで「ペルソナ5」というゲームを熱心やっていた。「女神転生」シリーズから派生した大人気シリーズのRPG最新作だが、そのゲームを始める前に問われる質問がこれである。そして同意しない限りゲームは始められない。
 このゲームの舞台は「東京」である。JRや地下鉄の通り方はリアルそのもので、町並みも現実の街並みをもとに模して作られているこのゲームは、さりとて物語は「現実」ではないバリバリのフィクションだ。しかし、この模擬東京は、非常に作り込まれ、「もうひとつの東京」としてユーザーの中で「認識」される。


 このゲームのテーマの一つに「認知」というものがある。
 ざっくり言うと、それは、人がその世界を「どう見ているか」という事である。人が毎日生活するなかで、どう人と相対し、どう世界を見ているか。「ペルソナ5」ではその「認知の歪み」が「異世界」として認識される。主人公達はその「認知の歪み」を糺して、正しい心を取り戻すのがゲームの大きな目的になっていく。
 だが、僕らは神ならざる者だ。目は二つしかない。心はひとつしかない。そして未来は常に不確定である。僕らが世界を正しく認識できるのは、すべてが手遅れになった後であることも多い。人の中にある「認知」というもの、世界を正しく認識するには時間がかかるものである。または永遠にすべてを正しく認識できないのかもしれない。


 さて「この世界の片隅に」である。


 このアニメを見終わった後、ずっと考えていたのは「この映画とどう相対すべきであるか。」ということであった。
 物語としては非常に小さい物語だ。広島の呉へ十代でお嫁に入り、日々生活していく女性と、その周辺の人々の物語である。



「戦争」と「朝ドラ」と「のん」


 まず役者と物語構造の相関から考える。この映画の主人公の声を当てているのは能年玲奈改め「のん」さんである。ご存じ「あまちゃん」のヒロイン・天野アキを演じて、国民的人気を得た。その後の彼女の境遇については本エントリでは言及しない。


 能年玲奈は戦争を経験していない。


 もちろん生きている我々の多くが経験していないが、この場合、「フィクション内で」ということである。
 「生活の中で戦争を経験する」メディアとして、この日本でもっとも身近でポピュラーな表現形態と言えば、NHK「朝のテレビ小説」である。朝ドラと戦争の相性は実は非常に良く、戦前・戦中・戦後を通過する物語では大抵、戦中の生活が描かれていることは多くの人がご存じではあろう。

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 描き方によっては非常に鋭く「戦争」を描くことが出来るジャンルである。個人的には「カーネーション」での「生活する女性から見た戦争」の痛みの描写は、時に非常に刺すような鋭さがあり、当時あまり馴染みのなかった「朝ドラ」というジャンルを、ボクに大きく見直させるだけのポテンシャルを感じさせた。
 しかし、「あまちゃん」は「現代の少女たちの成長」を描いたコメディであり、その「戦争」を通過せずにきた。言ってみれば、「能年玲奈」の中で「戦争」への「認知」は非常にまっさらであるということである。

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 「あまちゃん」以後の能年玲奈という女優の活動をボクはざっと見ている。ボクの中で彼女への評価は、「ドがつくほどの不器用。だが、一度役にハマると俄然他を圧倒する輝きを放つ、ある種の天才。」というものである。
 わかりやすい比較対象で言えば「有村架純」だ。ヒロインの母・天野春子の若き日を演じた彼女は、能年玲奈とは対照的に、その後テレビで見ない日はないほどの売れっ子になっていく。彼女の場合、女優としての才能は「どんな役でもきちんとなりきれる」という器用さ、そして相応の演技力が備わっていることにある。だから、使う側から考えると非常にキャスティングしやすい。
 一方の「能年玲奈」はどうだったかというと、一言で言えば「天野アキ」をひきずったまま女優業を続けている状態だったのだと思う。だから扱いが難儀だったんじゃないかと思うし、本人もそのことにいち早く気づいていたんじゃないかと思うのだ。天才「クドカン」のアテ書きという言わば最高の環境で、バチっと馴染む「当たり役」をいきなり得てしまった彼女は、求められるキャラクターも演技も「能年ちゃん」「天野アキ的な何か」というパッケージングでしか売りようがなかった気がするのだ。


 しかし、しばらく開店休業状態の間に出会ったのが本作の「北條すず」さんという役になるわけだ。


 能年玲奈という本名から「のん」という芸名へと変更した過程で、少しずつ「あまちゃん」の色を落としかけていた頃に役に出会ったのが、彼女の中で大きかったのではないかと思うのである。
 だから彼女は「天野アキ」ではなく、「北條すず」としてまっさらに作品世界に入っていたのではないか。そんな気がしている。まるでまっさらな「スケッチブック」に描くように、彼女は「北條すずの生活」を楽しそうに演じていく。それがこの映画を非常に楽しいものにしている。
 ハマるまでが長い。ただ、ハマれば天才。能年玲奈とはそういう女優であり、「のん」になって初めて出会った「ハマる」役が本作のヒロインなのだと思うのです。


 その事は彼女のキャリアにおいてかなり幸運な事だと思うのです。



近景の「生活」と遠景の「歴史的事物」との距離。


感想:うごめく世界の片隅で「風立ちぬ」 - 虚馬ダイアリー


 以前書いた「風立ちぬ」の感想で、宮崎駿という人は「ワールドテラー」であると書いた。宮崎駿という人は人と世界のうごめきで映画を語る事が出来る。「風立ちぬ」の特筆すべき点は「年号」が全く出ないのに、時間が経過したことを観客に理解させるという恐るべき事をやってのけていたのであるが、あくまでも宮崎駿の中の「認知」をもとにした「再創造(リ・イマジネーション)」したうごめく世界であった。
 それに対して本作はあくまでも眼目は「ストーリー」である。そして世界は「歴史」通りに動く。言わば「世界の精密再現」である。遠景を「精密再現」することで「生活者」すずさんの「フィクション」を圧倒的に補強する。そしてもう一つ重要なのが、小さく繊細なすずさんの「フィクション」と歴史との「距離」である。


 小さい頃のすずさんは自分が世界の「中心」だと思っている。だから「ひとさらい」がこわくない。ひとさらいも「愉快なおっさん」である。(いや、体験自体は恐かったのかもしれないが、恐くない形で「認知」を変えている。)。そして世界は自分の暮らす「街」とその周辺がすべてであった。
 しかし、街を出て嫁入りし、別の街で暮らすようになって初めて、彼女は少しずつ「世界」の視野が広がってくる。自分の街にあるもの、自分の街からは見えないものの存在を認知する。そして、「軍港」呉から遠くの海に見える「戦争」に関わるもの、空襲が始まってから自分たちに近づいてくる「戦争」を認知する。
 それでもあくまで、すずさんにとっては、生活や、旦那さんの周作さんとのやりとりの中で、仲良くしたり、喧嘩したり、傷つけられたり傷つけたりしながら生きていく日々が、あくまでも「近景」であり、「歴史」は遠くにあるものだった。だが、残酷な「世界」が彼女に突如牙を剥くことになる。


 この映画を見ていて僕らは改めて思うのだ。「ぼくら」の世界の見え方も所詮はそんなものだって。人々が抱える苦労や痛みや悩みなんてえものは遠くにあり、僕らは身近な一見、どうでもええような事で悩んだり、笑ったり、泣いたりするわけである。
 戦時と今の我々、何が違うだろうか。そして今こうして文章を書いている間でも世界は常に「動いている」。僕らはそれを遠景に押し込めているに過ぎない。
 だからこそ、僕らは時に危ういのである。「世界」はいつもは遠景にあって自分たちには関係ない顔をして鎮座している。だが、ぼくらはその「世界の片隅」にいるに過ぎず、時に世界が「暴力」となって自分に降りかかることがある。そのことを日本人の多くが、遠からず経験している。すずさんが自分のいる世界を「片隅」と認識して、周作さんに「ありがとね」と行った時に、彼女はより正しく「世界」と相対したということになる。


 そしてそれは、我々にも決して不可分な「意識」である。この映画を見ていると改めて気づかされる。我々も所詮は「世界の片隅」に生きる「生活者」なのである、と。


「現在」と軽やかに接続される「戦時」


 もうひとつ。この映画が描き出すのは、戦後の日本人が無意識に断ち切ってきた「戦前」「戦中」と「戦後」の間の溝を埋めて、フラットに意識をつなげていく事を志向した作品であるということである。
 

「日本のいちばん長い日」感想。
歴史と接続されていく戦後「日本のいちばん長い日」 - 虚馬ダイアリー

 日本国民はずっと「大日本帝国」に欺されてきたのだ、という歴史の中で、昭和20年8月15日を境に我々は「変わらなければならぬ」という意識の中で「戦前と戦後」という形で「昭和」を分断してきた。
 原田眞人監督は言わばその「接続」が途絶されてしまった戦前/戦後という溝を、「昭和天皇」という存在によって歴史をもう一度「接続」しようという試みなのでは無いか。岡本喜八版が「戦前は戦後の我々とは違う」という思いを込めて撮り上げた映画に対して、原田監督は「変わったようでいて実は変わっていない日本」という映画を撮り上げたのではないか。それがすごく「今」な認識であるようにも思う。

 戦後、多くの戦争についての映画は、「今は戦後である」という意識・無意識の中で、「戦前・戦中」を終戦という深い谷を築き、その向こう側を見る映画を作り上げてきた。つまり、あくまでも自分自身が「そこにいる」というよりも、まるで「別の世界」のフィクションを見るような気持ちで映画を見ている。そんな気持ちが長く日本人の中にあった気がする。
 あくまでも「戦前・戦中」は繰り返されざる「歴史」であって、その時代に生きた人々をリアリティをもって想像するという事はされてこなかったように思う。


 かつて「戦争もの」で描かれた「戦前・戦中」は、「戦後」から見た「対岸の大火事」としてしか、描かれなかったものがほとんどだったのではないか。


 片渕監督がここまで当時あった風俗や事物、歴史を綿密にリサーチして、リアルに戯画化するほどにフィクションとして再現したのは、フィクションを「補強」する以上の意味があるのだと思う。
 生活をする中ですずさんは色々なものを見逃しながら、鮮やかな近景の物語を生きている。遠景の「世界」では様々な悲惨なことが起きていて、彼女はそれには気づかずに生きている。
 それは我々も変わらないのである。遠景にある「世界の一部」がその後どうなるか。それを彼女が知るのは、時を経なければ「認知」できないように。我々は「近景」だけで世界を認識し、「遠景」はなんとなくわかったような感じで生きていくより他はない。
 すずさんが生きた時代と現在。それは何がちがうのだろうか。そう問いかけられているような気がしてならない。

 すずさんの時代の「世界」に何が起きたか。この映画は声高には言及しない。だからこそ、自分たちで調べ、学んでいかねばならないのである。しなやかに生きてきた彼女が、喪い、歪み、苦しみ、悔しさに流した涙の根源はどこから来たのか。僕らはそれを知り、そして学ばねばならない。

 言ってみれば彼女のいる場所が「世界の片隅」であるならば、そこから少しずつ「世界」全体でなにが起きていたのか。それを補強するのは我々の方である。片渕監督は愉快な映画を撮っただけでは決してない、と思ってしまうのはそのためだ。



 この物語はフィクションである。作中の如何なる人物、思想、事象も、全て紛れもなく、貴君の現実に存在する人物、思想、事象とは無関係だ。


 しかし、このフィクションの向こう側にひろがる世界は紛れもなく「本物」である。そこがこの映画の本当に恐ろしいところだ。「戦前・戦中」と「戦後」の意識を「北條すず」という存在で軽やかに繋ぎながら、世界はまぎれもなく史実どおりに動いている。ラストに家族が遠景を見つめているのは、言わば「世界」「歴史」という「遠景」を見通している。
 ボクが見終わった後、素直に涙が出ずに、何か重いパンチを食らったような形で、半ば酩酊したような気持ちで劇場の外へ出た。その原因は多分、片渕監督が観客に対して、非常に重い課題を問うてきたような、そんな気持ちがしたからである。大好き。である。が、恐ろしい映画とも思った。傑作。(★★★★★)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 中 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

この世界の片隅に 下 (アクションコミックス)

「続・深夜食堂」

toshi202016-11-07

監督:松岡錠司
原作:安倍夜郎
脚本:真辺克彦/小嶋健作/松岡錠司




ぜいご

ぜいご



 いつもの歌が流れ、少しずつ変わりゆく新宿が映し出される。変わりゆく街を変わらないアングルで撮り続けるオープニングがほっとさせる。いつものように豚汁を作り、開店準備をするマスター。
 ドラマ版も映画版も、始まりは変わらない。本作でも変わらない。VODサービスのNETFLIXで配信される全10話のドラマの新シリーズとともに、劇場にも「めしや」が帰ってきた。
 ドラマ「深夜食堂」の劇場版第2弾である。


 ドラマ版の設定を改めて説明すると、新宿の裏通りにある「メニュー以外でも出来るものなら何でもつくる」マスター(小林薫)が営む深夜にしか開かない「めしや」、人呼んで「深夜食堂」。そこで頼まれた「メニュー」と頼んだ「客」についてのドラマを描いた、一話完結形式の人気シリーズである。



【関連】前作の感想。
君を待ってる。「映画 深夜食堂」 - 虚馬ダイアリー


 構成もほぼ前作と同じ。1本の映画につき三幕。ドラマと語り口は変わらない。めしやで起きた人間模様を描き出すその語り口は、ドラマシリーズと変わらない。


 第1幕「焼肉定食」はストレス発散のために、休日喪服で街に出かける女性編集者(河井青葉)が出会う、死と恋を巡る物語。
 第2幕「鍋焼きうどん」は近所のそば屋を営む女主人(キムラ緑子)と「鍋焼きうどん」を頼む息子(池松壮亮)を巡る、親離れ子離れを巡る人情噺。
 第3幕「豚汁定食」は博多から詐欺に欺されて上京したおばあさん(渡辺美佐子)の、ちょっとした冒険と東京に残したある未練を描く物語である。


 しかし、この劇場版シリーズは何も変わらないにもかかわらず、テレビシリーズとは違う独特の滋味がある。それはドラマという「お約束事」から軽やかに逃れている点にあるのではないか、と思う。


 時の流れというのは一定だが人の記憶は一定ではない。起きる出来事の大小も様々だ。ドラマシリーズというのは、ひとつひとつの出来事をあくまでも「枠」を30分として一定で描いているが、印象に残る残らないというのは起きる出来事によって様々なわけである。そも一定というのは、テレビドラマの「都合」である。言ってみれば型にはまらざるを得ないのが、一話完結形式のテレビドラマの限界ではある。
 映画版でのエピソードは108分でドラマ版に即した三幕構成だが、その大きさは不揃いだ。そして語られるエピソードは「めしや」の客のエピソードという以外のつながりはあまりない。
 そしてエピソードは「春夏秋冬」で季節通りに流れていく。だから「ドラマと同じ」に見えて、映画の方がドラマよりも「自由」に見えるのだ。



 そしてタイトルだ。「続」と来た。そう、「続」なのである。


 前作の第2話で、めしやに転がり込んで2階に住まわせた唯一の女(意味深)、多部未華子演じるみちるちゃんが、第3話で見事、再登場を果たす。関わり方もほぼ準主役である。
 いやあ、嬉しい。再登場は予告編で知ってたけど、ここまでエピソードできっちり絡んでくれるとは。これで名実ともに彼女は劇場版専用ヒロインである(断言)。
 しかし、本当に松岡錠司監督は多部未華子ちゃんを美しく撮ってくれる。ファンとして嬉しくなってしまう。ホントさあ、女神かと思うくらい可愛い。多部ちゃんの撮り方を本当に心得ているんだよなあ。どう撮れば美しいかをちゃんとわかってる。眼福であります。ありがとうございます。ありがとうございます。


 ドラマという「枠」でのシリーズを成功させながら、劇場版でより「自由」にエピソードを描き出し、のびのびと「映画」にしてしまう松岡錠司監督の軽やかな手際は相変わらず健在である。
 前作でもそうだが、本作ではよりその手際は見事である。「豚汁定食」の物語などは、本来なら映画で描くほどの大仰な物語ではない。しかし、ドラマでの積み重ねを得た後に、豚汁定食をすする渡辺美佐子おばあちゃんを見ていて、ふいに涙が出てしまうのは、このシリーズの恐ろしいところだ。
 泣かせなようとするような場面ではない。だが、ドラマシリーズを見ているものならわかっている。「豚汁定食」は、「メニュー以外の料理もつくる」めしやの、「メニューに書いてある料理」なのだ。
 「メニューに書いてない」さまざまな料理を作ってきたマスターが出す、「書いてあるメニュー」の意味。それがさりげなく明らかになる。


 ドラマ版を見ていない人ももちろん楽しめるが、ドラマを見ているとより一層楽しい。ドラマでおなじみの常連客たちもにぎやかに顔をそろえる。彼らの物語は、全部で4シリーズあるドラマ版でチェックしつつ、劇場版ではよりゆったりと、「映画仕様」のドラマとヒロインであなたのお越しをお待ちしております。もちろん、大好き。(★★★★☆)


「聖の青春」

toshi202016-11-02

原作:大崎善生
監督:森義隆
脚本: 向井康介



 東京国際映画祭で見た。


 今年の東京国際映画祭はチケットシステムトラブルが例年以上に酷く、私も色々予定を狂わされた1人であるが、クロージングである本作の席をあっさりと取ることが出来たのもある意味そのおかげかもわからなかった。
 しかしまあ、なにしろ一応、国際映画祭のトリを飾る作品であるということで、主演の松山ケンイチ東出昌大が登壇し、ゲストにオリンピックの金メダリストを呼ぶなど、主催者側としてはなんとか盛り上げようとした雰囲気は感じられた。
 しかし、なにしろ上映前でのイベントだったので、映画上映後だったらもう少し突っ込んだ話も出来るイベントだったろうになあと思ったりもした。ていうか、ちょっと進行がね、今ひとつぱっとしなかったんですよね。段取りも悪かったし。

 そんな中でも、松山ケンイチ東出昌大らキャストからは、強気の言葉が出てくる。この映画に対する思い、自負が感じられる言葉は非常に映画に期待を高まらせるものであった。


 さて。映画本編である。
 本作は夭折した羽生善治が最も恐れた棋士と言われる天才・村山聖のわずか29年を壮烈に生きた生涯を描いているわけである。
 演じる松山ケンイチは本人になりきるために体重を増やし、体型を改造して本作に望んでいるし、羽生善治を演じる東出昌大も羽生独特の空気を見事に表出させている。上映前の会見でキャストと監督含め、かなりの自信を覗かせる発言もうなずける絵づくりがされている作品である。一言で言って力作である。



 で。


 見終わった後の私のTwitterでつぶやいた一言がこうである。

TIFF「聖の青春」。れ・・・・恋愛映画だった。ディープラブ。


何言ってんだ俺。


 見ていて、この映画の眼目を脚色の向井康介氏がどこに向けたのか。一言で言えば、村山聖羽生善治という男の、将棋を通して生まれる「絆」についての物語としたんだと思うのだ。
 この映画で描かれる村山聖は基本的に言えば「気が強いけどシャイな男」である。「将棋」というものはそも、頭が強いだけではダメで勝負の中で「必ず勝つ」という精神力が問われてくる。場が煮詰まって勝負の行方が混沌としてきた時ほど、一手の重みは増してくる。彼はその場が煮詰まってくる場面での見極めが非常に的確なのである。詰むか詰まないか。プロでも悩む局面で彼はにべもなく「詰まない」と答える。そしてそれは当たる。
 村山聖という青年はその精神力に関して言えば並々ならぬものがある。


 広島県出身。幼少期にはネフローゼ症候群という難病にかかり、入院生活を余儀なくされ、そこで覚えたのが将棋である。10歳で将棋教室に通い始め頭角を表すと、中学1年生でプロを目指し始め、大阪の森信雄に弟子入り。17歳でプロ入りを果たす。
 幼い頃から病身ゆえに「生きる」という事に対して貪欲な少年は、師匠に支えられながらその強い精神と負けん気で、「羽生世代」と呼ばれる勢力の一角として、将棋界で名を轟かせるようになる。


 向井庸介氏の脚色は村山聖を「持たざる者」と規定しているように思う。本好き、漫画好きで特に少女漫画のコレクションは3000冊に及ぶ。普通の小学生時代を送れず、将棋だけが彼を肯定してくれる存在であり、ただ貪欲に将棋に没頭しながら、切るにしのびないからと髪と爪を切らず、浮腫の浮いたせいで独特な風貌により「怪童丸」と呼ばれた。食生活は偏り、麻雀や酒を覚え、男に対しては強気で話せるけれども、異性相手だと言葉少なになり、言いたい事も言えなくなってしまう男として描かれる。
 そんな男が天才・羽生善治と出会う事で、彼は東京行きを決意する。


 対する羽生善治は「持ってる」男である。
 端正で知的な顔立ち、実力は日本トップクラス、主要タイトル7冠を総なめにし、常に彼の一挙手一投足にメディアが注目、私生活では女優と結婚するなど、村山が欲しいものはすべて手に入れている男。だが、決してそれに溺れる事無く、愚直に将棋に打ち込む姿勢に誰もが感服する。名声も尊敬も名誉も。なにもかもを手に入れながら、決しておごらない。勝負で本気で指しあいながら、対局後はどんな対戦相手に常に敬意を払うその物腰は、まさに、将棋界に舞い降りたスーパーアイドルである。村山聖もまた、彼に魅せられ続ける。


 ガンが発覚し、それでも勝負が弱くなるからと周囲に隠しながら、病院からの診察呼び出しにも応じない村山聖の身体は次第にがんに蝕まれていく。それでも、村山が何故「強さ」にこだわり続けたのか。
 その理由は、やはり「羽生善治」なのである。


 村山聖羽生善治に話しかける時の態度は異性に対するそれと同じである。まず強気の態度が取れない。そして目が合わせられない。
 たった一度、彼が羽生を呑みに誘うシーンがある。


 村山聖は趣味が「麻雀、酒、少女漫画」、羽生善治が「チェス」。そしてそれ以外にはとんと興味が無い2人の会話は途切れる。だが、将棋の話をしている時だけは、互いに魂が通じ合う。
 いよいよ膀胱ガンが進行し、「子供が作れなくなる」という理由でいやがっていた除去手術を受け入れることにしたのは、「生きる」ためである。村山は何のために「生きる」のか。
 この映画では「羽生と打つため」としている気がするのだ。


 サシ呑みしている席で羽生はこう言う。
 「対局中時折、どこまで潜っていくのか不安になる事がある。でも村山さんとなら・・・どこまでも深く潜れる気がする」と。

 その言葉に村山も同調する。
 どこまでも行ける。羽生さんとなら。そのためなら、生きられる。


 自分は長く生きられない。それゆえに将棋以外は不器用にしか生きられなかった男が、最後にたどり着くのはやはり将棋である。対局相手が羽生さんであるならば、どんな深いところへでも潜ることが出来る。行こう。ともに。
 「生きているのだから切るに忍びない」と伸ばし続けた髪とツメを切り、夜中に「パチリ、パチリ」と将棋盤に向かい合う。その音を聞きながら、母親(竹下景子)は泣き崩れる。村山の命は、まさに将棋のためだけにあった。


 この映画における村山の描写は、実話を叩き台にしながらも、おそらくフィクションある部分が多分に入っている映画では無いかと思う。けれども、物語を「村山聖」と「羽生善治」という、実生活では決して相容れないであろう2人が、盤上では誰よりも通じ合える関係であるというテーマを軸に、映画を描いてみせたのはなかなか面白い切り口であったように思う。
 まさに常人には見えない風景を求めて潜っていく者達の、愛の映画ではないか。見ていてそう思わされた映画でありました。(★★★★)



「ハドソン川の奇跡」

toshi202016-10-26

原題:Sully
監督:クリント・イーストウッド
脚本:トッド・コマーニキ



 「私は英雄ではない。」USエアウェイズ1549便の機長、チェスリー・"サリー"・サレンバーガー (トム・ハンクス)は何度も言う。


 映画の冒頭場面。大都会のビル群を縫うように飛ぶ旅客機。機長のサリーはエンジンが壊れた機体をなんとか空港までもたせようとしている。だが、奮闘もむなしく、旅客機は墜落を余儀なくされる。
 サリーは飛び起きる。「あの事故」から幾度となく見る夢だ。


 「なぜあの時、私はそうしたのだろう。」


 サリーは何度も何度も自問する。


 あの日。2009年1月15日。サリーは機長として「ハドソン川への不時着水」を強行した。離陸直後、鳥がエンジンに入って破壊する「バードストライク」それによって両翼のエンジンを破損する事故。なんの問題もないフライトになるはずが、前代未聞誰も経験したことのない状況に叩き込まれた。
 その不時着水によって、彼は166人の乗客を無事生還させ、彼は一躍メディアの寵児となった。だが、その彼の「行動」を問題視したのが、国家安全運輸委員会であった。彼らは言う。「もっと安全に乗客を生還させる道があった」と。
 残された機体のデータ。それによるコンピューターシミュレーションによって、左エンジンは生きており、空港に引き返すのがもっとも安全に乗客を返す方法だと結論づけられた。


 サリーは一職業人として問う。何度も自分に。なぜ。なぜ私はそうしなかったのだろうか。ハドソン川へ向かったのだろうか、と。


文庫版 魍魎の匣 (講談社文庫)

文庫版 魍魎の匣 (講談社文庫)


 人は何かをしたあとに、その行動の「理由」を考える。ミステリーにおける「動機」である。しかし、それは大抵、後付けの理由に過ぎない場合がある。
 「通りものにあたるようなもの。」京極夏彦百鬼夜行シリーズでは犯罪の「動機」をそう説明する。そうしたいときに、そういう場面、そういう状況に触れてはじめて人は犯罪を犯すか犯さないかの岐路に立たされる。人は大抵は「目的」があって「犯罪」を犯すのではなく、「その状況」に立ってみて初めて「犯罪に手を染める/染めない」の選択を迫られるという考え方である。


 あの日。サリーは、機体をハドソン川へと向けた。そのせいで彼は、これまで築きあげてきたキャリアと、信頼と、財産をふいにするかもしれぬ危地に立っている。妻にも問われた。
 「なぜハドソン川へ向かってしまったの?」と。
 乗客の命を危険にさらしたことはまちがいない。失敗すれば確実に死んでいた。それよりも空港で着陸する方がリスクを冒さない最善の道だったはずだ。そんな事はわかっている。でもあの日。あの時。あの状況。どう思い返しても、それが最善の道だったとしか思えないのである。
 事故後のデータ、コンピューターによるシミュレーション、さらにはパイロット達によるシミュレーターでの事故再現。その全てが「空港に戻れた」と示している。だが、彼の元には残っている。あの日、果たしたサリーの「ハドソン川の不時着」こそ、「完全なる仕事」、「胸を張れる仕事」であるという実感が。


 クリント・イーストウッド監督は、実話である「USエアウェイズ1549便不時着水事故」の機長の、事故後に起こった「疑惑」と、それに対峙する苦悩を軸に、このベテランパイロットがあの日行った「奇跡」はどうして起こったかを解きほぐしていく。
 毎日行うルーティーンに思える仕事。だが、機長も副機長も、優秀なる添乗員たちも、常に事故に対する備えや心構えをしながら日々をすごしている。「乗客を目的地まで届ける。」その「仕事」を為すために、あらゆる状況に対応するために、事故が起こればあらゆることを調べ、どう対策をすればそれが防げたか。それを考えてきた。
 この映画の「かたきやく」にも思える「国家安全運輸委員会」もまた、「その当たり前」の「仕事」をより安全に探り、事故に対して最善の方法を検証していくのである。
 だから、サリー機長は最後まで「国家安全運輸委員会」の指摘に真摯に向き合い続けるし、何度も自身の仕事は「最善」だったかを問うのである。


 そして、サリーは迷いの中でひとつの突破口を見つけ、「疑惑」を検証する公聴会へと望むのである。


 ボクは思う。「通り者に当たる」というのはなにも「犯罪」だけではないんじゃないかと。積み上げられてきた「仕事」、目に見えない「不断の努力」、「乗客を無事に送り届ける」という当たり前の「仕事」を為すためにあらゆる対策をもうけ、チェックしてきた、その「目に見えない仕事」が、想定では「あり得ない事態」に直面してきた時に、「奇跡的な判断」を起こさせるのではないかと。
 「奇跡」もまた「通り者」の仕業と言えるのでは無いか。奇跡を為すべき「人」が、その「状況」にいるからこそ、「奇跡」は起こりうる。


 ボクがこの映画を見て、涙が止まらなかったのは、イーストウッド監督が「仕事」というもの、「不断の努力」を必要とする仕事に携わる人々への、大いなる敬意と愛情を感じたからに他ならない。

 2009年1月15日。あの日、あの時間、あの機体。そこに、経験と努力を怠らないベテラン機長、チェスリー・"サリー"・サレンバーガーがいて、そして彼が、彼自身の「仕事」をした事が、「奇跡」だったのだと。彼だけではない。想定外の事態に取り乱さず冷静に向き合った副機長ジェフ・スカイルズ 、冷静に乗客を誘導した添乗員、トラブルを起こさずに従った乗客達、いち早く救出に向かった救助隊、彼らがそろっていて初めて、「奇跡」はなしえたのだと。


 サリーは言う。「私は英雄ではない。仕事をしただけだ。」と。「最高の仕事」、「胸を張れる仕事」を。そんな彼が「そこにいた」ことこそが、奇跡なのだと解き明かす。クリント・イーストウッド監督の演出は、それを決して大仰には描かず、リアルに、そして真摯に演出する。またひとつ、イーストウッド監督は傑作をものにした。イーストウッド監督も、この映画で「偉大な仕事」を果たしたのである。超・大好き。(★★★★★)

「ルパン三世/カリオストロの城」ゴート札考

toshi202016-10-14






 金曜ロードショウで放映された「カリオストロの城」を見ていた。

 今や知らないものはない程に知られた名作であり、放映されているとつい見てしまう大人気アニメーション映画であるが、見ていて気になり始めたことがあった。ゴート札である。
 ルパン三世が国営カジノの金庫に忍び込み、逃げおおせたものの奪った札がことごとくゴート札という偽金であったことから、その大元の偽金の原版を奪おうとした事が物語の発端である。


 ゴート札は主要産業がないカリオストロ公国の、国を支える「経済活動」である。
 本編の中でルパン三世が説明するゴート札の概要とはこうである。

ルパン三世「かつて本物以上と讃えられた ゴート札の心臓部がここだ。 中世以来 ヨーロッパの動乱の陰に 必ず うごめいていた謎のニセ金。ブルボン王朝を破滅させ ナポレオンの資金源となり、1927年には世界恐慌の 引き金ともなった。歴史の裏舞台 ブラックホールの主役 ゴート札。」

 世界中に流通する精巧なる偽札。それによって得た利益によって、ロビー活動を行い、世界中の首脳とコネクションを持つカリオストロ伯爵。もともとシコシコと一枚一枚丁寧に作り上げてきたであろう偽札つくりを近代化と大量生産体制に切り替えるというやり手経営者である。彼は常にクオリティを自らチェックし、部下に的確な指示を出せる男であり、実務家としても有能である。


 ゴート札産業はすごいと思うのは、印刷に少しでも関わっていたらわかると思うけど、クオリティと大量生産のバランスである。銭形警部が国連で証言によれば、公国にあった地下工房は最新の印刷機であったそうだけど、相当な練熟した印刷職人がいなければなりたたない現場である。クオリティを下げずに大量生産するためには常に機械のメンテナンスは欠かせない。印面を汚さずに大量生産することだけでも相当に難しいが、エラーをださない大量生産することは、さらに難しい。その上、かつてのクオリティを維持しなければないのである。
 ルパンのような相当の目利きはともかくも、世界中に流通して決してバレないハイクオリティな偽札を印刷機に掛けて作り、なおかつ各国しのぎを削らせているであろう、偽札対策技術すらも越えて流通させるという、その離れ業は相当な熟練した印刷工たちの努力の結晶とも言える。
 正直な事を言えば、ルパン三世がちょっかい出さなければ、いやさ、カリオストロ伯爵がクラリス姫を嫁にもらおうとするロリコン伯爵でさえなかったら、彼らはいまも真っ当に(?)偽札づくりに励んでいたであろうことは間違いが無い。

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 偽札作りが犯罪でさえなかったら、NHKが「プロジェクトX」に取り上げたっていいくらいである。そして、クラリス姫のいた「大公」家は、そもそも、伯爵家が守ってきた「産業」の恩恵を最大限に受け取ってきた人々でもある。


 そもそもは細々とした技術であったろうゴート札づくり。その圧倒的クオリティは他の追随を許さないわけであり、つまるところを言えば、その技術力は他国にいるであろう偽札業者たちはおろか、実際に紙幣を作る国立印刷局すら越える技術力を誇ってきたのである。しかもそれを、近代化させ、印刷機で大量生産させるためには、相当な企業努力があったことでありましょう。彼らを支えているのは、「小国である我らの印刷技術は大国のそれを越える世界一!」という自負でありましょう。
 考えてみればゴート札はそういう努力の積み重ねに支えられているのである。たかだか原盤盗んだだけではとうていゴート札の深淵は理解出来ない。


 そこには印刷技術者たちの語るも涙の苦闘があったに違いないのである。


 ところがルパン一味はこともあろうに、伯爵を初めとする偽札印刷のプロフェッショナルたちが汗と涙で培ってきたであろう利益の恩恵を一身に受け、なにもしてこなかったであろう大公家の娘にたぶらかされて!この「産業」をぶっ壊してしまうわけであるよ! 
 なんということでしょう!


 彼らの無念は如何ばかりでありましょうか!時を越えて伝えられ、そして磨き上げられてきたその印刷技術。その長きに渡る苦闘を思う時、ボクは彼らを思って、涙してしまうのです。
 ルパン一味は彼らの技術に対する誇り!仕事に対する飽くなき熱意!そして、連綿と続いてきた伝統!それを完膚なきにつぶしていったのであります!なにが「気持ちいい連中」でありましょうか!


 ルパンはとんでもないものを盗んで行きました!印刷職人たちの職を!仕事を!誇りを!




 さて。
 経営者である伯爵が亡くなり、国連の査察が入ってからのち、彼らの生活はどうなっていくのでしょう。


 続編的立ち位置のゲームでは、生き残った腹心・ジョドーはそれでもゴート札作りを継承し、潰されたりしてるそうですが、それはルパンがやってきてきっちり潰していく末路をたどっています。


 職を失った職人達はおそらく国外に移り、偽札対策の技術協力などで生きていくのかも知れません。
 また、「カリオストロの城」のラストで観光資源を発見したことから、モデルとなったと言われるリヒテンシュタイン公国のように、切手印刷を生業にするものもいるかもしれません。


 偽札づくりは犯罪です。ですが、そこにあった技術者たちの苦闘は本物であったとボクは思っています。
 カリオストロ公国にはこういう格言が出来たかも知れません。


 「似せるは恥だが役に立つ」
 ということで、今回の戯れ言はお開きです。




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