虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ジェイソン・ボーン」

toshi202016-10-07


原題;Jason Bourne
監督 ポール・グリーングラス
脚本 ポール・グリーングラス/クリストファー・ラウズ
原作 ・キャラクター創造:ロバート・ラドラム



 その男は生きていた。自らの罪にのたうちながら。
 そして、僕らは待っていた。少なくともボクは待っていた。彼の帰還を。


 待ちきれなくて、うっかり台湾に行ってしまうほどに。


 おマットさんのカムバック。「ボーン・アルティメイタム」以来、ポール・グリーングラス監督と主演のマット・デイモンが、2012年の外伝となる「ボーン・レガシー」を挟んで登板した、ナンバリングとしては第5作となる「ボーン」シリーズ最新作である。

 最初にシリーズが始まったのは「ボーン・アイデンティティ」である。ボクはこの第1作を劇場で見ているが、最初見た時はそこまで惹かれたわけではない。「記憶をなくした男」が実は「暗殺者」であった、という物語自体はそれほど目新しいものではないし、アクション描写もいま思えば古くさいものであった。
 第1作のボーンは、なんというかまだ自身の能力を使いこなしていたわけではなく、その能力を「無意識に」使っているという段階で、しかも物語は出会った女性・マリーと一緒に暮らしてハッピーエンドという、良くも悪くもオーソドックスな娯楽作というイメージであった。

 しかし第2作「ボーン・スプレマシー」。ここで物語と演出に革新が起こる。スピード感とリアリズム溢れるアクションと、ドキュメンタリータッチのカメラワーク、すべての行動に「意味」を持たせる明晰な頭脳戦と、それを支える緻密な編集。無駄のないボーンの動きは、まさに「早歩きの精密機械」(命名:俺)である。この演出が、アクション映画というジャンルに新たな潮流を産んだと言っても過言ではない。


 「ジェイソン・ボーン」という「名前」と新たなる「人生」を経た「元暗殺者」の青年は、次第に過去の所行を思い出しては眠れない日々を過ごすようになる。新たなる「生」を得ても「過去」は彼を苦しめ、そして、過去は彼の愛する人・マリーを奪っていく。
 彼は自身の過去と向き合うため、彼を生んだ「トレッドストーン計画」の全貌に迫っていく事になる。
 ここに至って「ジェイソン・ボーン」は「明確な意志」を宿した「CIAの精密機械」として動き出すことになる。



 そして「ボーン・アルティメイタム」でいよいよ物語は核心へと至る。
 真相を求めて世界中を飛び回るボーンがやがてたどり着くのは、本丸・CIA本部である。アルバート・ハーシュ博士に銃を突きつけ、真相を迫る。
 しかし、博士の口から漏れたのは、彼の「元の人格」である「デイビッド・ウェッブ」がこのトレッドストーン計画に進んで参加したという事実であった。


 この第2作と第3作の監督を担当したのがポール・グリーングラス監督である。この2作の評判と人気は飛躍的に高く、今回の再登板はまさにファン待望なのである。


 「スプレマシー」の話自体はものすごく地味だ。そして彼が、向かった場所は、かつて「妻が夫を殺した」ように見せかけてボーンが殺したロシア高官夫妻の娘のところであった。このシーンはボクが好きな場面である。



 「キミはご両親の死の真相について、知る必要がある。」「ボクが殺した。」


 この言葉は、奇しくも本作で「ジェイソン・ボーン」に向けられた言葉となっていく。

 「ボーン」シリーズの革新は、彼は記憶を取り戻してもアインデンティティはあくまでも「ジェイソン・ボーン」という「新たな人格」のままな事である。
 すべてを思い出したら「元の人格」に戻るという話はよくある。だが、彼はデイビッド・ウェッブという「名」を取り戻した後も、「ジェイソン・ボーン」という心のままで、「デイビッド・ウェッブ」の罪で苦しみ続けている。生きる事と罪と向き合い苦しむことが、ニアイコールで結ばれたまま、安穏とした平和な生活から遠く離れて、世界を放浪し続けるボーンである。
 そんな彼がギリシャで賭けボクシングをしているところから物語は始まる。


 元・CIA職員・ニッキー・パーソンズジュリア・スタイルズ)がCIA本部にハッキングを仕掛け、「トレッド・ストーン計画」に関するファイルを盗み出す。しかし、その場に居合わせたヘザー・リー(アリシア・ヴィキャンデル)は彼女の盗んだファイルに「追跡用」の仕掛けをつけ、上層部にニッキー追跡及び、彼女が関わっていた「ジェイソン・ボーン」の確保の任務の指揮役をさせて欲しいと訴える。


 ボーン初期3部作にすべて登場するニッキー・パーソンズは、記憶を失う以前のボーン(つまり、デイビッド・ウェッブ)と恋人関係であったことが、公式設定として明かされており、「アルティメイタム」ではそれを匂わせるセリフもある。本作ではヨリを戻した描写こそないものの、連絡を取り合う程度には付き合いがあることが明かされる。
 デモによる暴動が起こっている最中のアテネで再会したニッキーとボーン。彼女の口から告げられたのは、CIAの分析官であったボーンの父親が実はトレッドストーン計画に深く関わっていたというものだった。
 やがて二人にCIAの追跡の手が伸びてくる。隠遁していたボーンが、再び「真実」を求めて動き出す。


 本作でもう1人。能動的に動く存在が、ヘザー・リーである。ハッキング事件の捜査でジェイソン・ボーンを追ううちに、野心的な彼女は今後のキャリアのために、ジェイソン・ボーンを再びCIAに引き戻せないかと考え始める。
 CIAの悪しき過去を暴いた存在としてボーンを消したいCIA長官・ロバート・デューイ(トミー・リー・ジョーンズ)と一線を引き、ヘザー・リーは次第にボーンに協力をしていくようになる。



 面白いのは、逃げ続けていたボーンは世界情勢やアップデートされ続けるガジェットへの対応が出来ていない。かつて「早歩きの精密機械」と呼ばれた(いや、勝手に呼んでるの俺だけど)、ボーンはアップデートされてないOSを積んだ古いコンピューターのようなものである。だから今回のボーンはアクション自体はちょっと「雑」だ。そこを埋めるのが彼を利用しようとするヘザー・リーという事である。この辺は2人の「初コンタクト」のシーンに象徴される。フィーチャーフォンスマートフォン。新旧の頭脳が出会い、利害だけでつながるというドライさが、このコンビの新しさだ。
 この辺のリアリズムのさじ加減は見事である。



 本作の難しいところは、「デイビッド・ウェッブ」という過去の人生を持ちながら、あらたな「ジェイソン・ボーン」という人格と人生を得た男が、長い年月を経て「デイビッド・ウェッブ」の人格に引っ張られているということである。ある種の分裂である。そして、過去の人生に再び追いつかれる。
 「ジェイソン・ボーン」と「デイビッド・ウェッブ」。本作で彼らの境はいよいよ曖昧になっていく。本作は「デイビッド・ウェッブ」としての「落とし前」の話になっていく。
 そこにヘザー・リーとデューイ長官の、CIAの世代間対立、そしてCIAの「計画」の落とし子である工作員と元工作員の過去の因縁が絡む。前作のようなシンプルに過去を追う物語にはならないところが、難しいところである。


 ボーンを再びCIAに引き戻し、利用しようするCIA側は「ジェイソン・ボーン」の中にある「デイビッド・ウェッブ」の価値観に問いかける。再び、戻らないか?と。あなたは「愛国者」だっただろう?と。それは、ハーシュ博士の「見立て」た「彼」への問いかけである。
 それに対して「考えておく」とだけ言い残して、ボーンは去る。


 だが、彼はある行動で意志を示す。
 俺の名は「ジェイソン・ボーン」。だが「デイビッド・ウェッブ」の影ではないと。過去に追いかけられ続ける人生。しかし、それでも俺は新たな人生を生きていく。それでも、過去が切り離せないなら、いっそ相対して生きていく。力強い歩みは覚悟を孕んでいる。
 「スプレマシー」「アルティメイタム」ほどの傑作とは言いがたいが、ジェイソン・ボーンの「復帰戦」、新たなる新章としては、まずは重畳の滑り出しである。大好き。(★★★★)



「君の名は。」

toshi202016-08-30

監督・脚本:新海誠





 外連、という言葉がある。


 元来人形浄瑠璃の世界で、「定法」に寄らず奇をてらったり、俗受けを狙うという意味であまりいい意味では使われない。いわゆる「はったり」だ。
 はったりというのはあまりいい意味には使われないが、ことフィクションの世界ではそうではない。現実的でない物語を語るときにどうしても必要になる。つまりはったりを利かせつつ、読者や観客の気を引きながら語る話法を俗に「外連味がある」などと言ったりする。これをカラダになじませてしまえば、それは立派な作家性にすらなりうるのである。


 さて。それをふまえて。
 

 新海誠監督最新作である。
 まずは驚いた。面白かった。


 感想を一言で言えば、まるで拙い綱渡りをみているような映画である。

転校生 [DVD]

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 物語は「転校生」の系譜に連なる「入れ替わり」ものであるが、新規性は「距離」である。東京と飛騨。舞台はこの二つであり、この「入れ替わり」が始まったとき、二人に「接点」はない。はずであった。少なくとも二人とも互いを互いに認識できない。
 飛騨の田舎町に住む女子高生の宮水三葉は、町では「べっぴんさん」で通っている。だが、父が町長を勤めていることで悪目立ちをさせられている状況があり、代々家の女性が担う巫女の口噛み酒の儀式では同級生からドン引かれるなど、町から早く出たいという思いが強い。「東京に行きたい」という願いが叶ったか、叶わぬか。東京の男子高校生、立花 瀧とたびたび「人格の入れ替わり」が起こり、互いに手探りの生活を強いられることになる。
 入れ替わった「相手」が自身の生活に与える影響の大きさに懲りた2人は、互いにルールを決めて、お互いが不自然にならず要らぬ影響を与えないように、スマホのメモなどを駆使して「筆談」形式でやり取りを始めるのだが、互いに影響を与えまくり、受けまくる日々が続く。だが、ある日、ぷつりと入れ替わりが途切れる。
 瀧は日に日に気になって、記憶をたよりに三葉の住む町を目指すが、その先で瀧は思わぬ事実にぶつかることになる。



秒速5センチメートル

秒速5センチメートル

恋愛記憶のすすめ「秒速5センチメートル」 - 虚馬ダイアリー


 自分はなんだかんだ、新海作品は大体劇場で見ているのですけど、「秒速」の頃までの新海誠は「女性」に対する「願望の押し付け」感というか、「こんな俺を好きでいてくれて、俺が好きなのは別の女性で、それを知りつつ告白しないでいてくれて」みたいな女性を恥ずかしげもなく出すというところがあって、「うほほほう!」と叫びだしそうな「痛々しい自意識」の「観客」との共有こそが作家性みたいなところがあったんだけど、その辺の感覚を克服できた作品が「言の葉の庭」だと思うんですね。

ここからは彼は「女性側」にもコンプレックスや秘密が当たり前のようにあって、そこから抜け出したいと思いながら苦しんでいるという、至極真っ当な描写をする。つまりここでようやく書き割りでない「他者」を描けるようになった。
コミュニティを抜け出したいと願うばかりで、そのコミュニティに生きる人を描く事を怠ってきた彼が、社会に根付いた他者の「物語」を描く喜びを爆発させたのが本作ではないか、という気がするのである。三葉が抜け出したいコミュニティーの美しさも汚さも描けるようになった懐の深さは、かつての彼には持ち得なかったものだ。



で。物語は中盤からある「大仕掛け」へと移行する。

入れ替わりは何故起こったか。そして、起こった先に2人が見る風景とは。そして2人が成していく「何か」を描いていくのである。


ここの大仕掛けの部分が賛否分かれるところではあるだろうと思う。新海監督に足りないのは「SF的整合性」を斟酌しない点だ。何故入れ替わりが起こったのかを説明する描写はあるものの、じゃあそもそもその「記憶」はどこから「来た」のだ?という因果律的におかしい場面が出てくるし、スマホの構造やセキュリティ的にも「メチャクチャするな、おい」っていう場面は頻繁に出てくる。ツッコミ入れ始めたらキリがない。整合性の部分だけ見たら、SFというよりファンタジーに近い。

だが。新海監督は「彼女は彼が好き」「彼は彼女が好き」という「思い」だけを頼りに文字通り押し通って行く。「こういう展開が描きたい!」「こういう絵を見せたい!」という気持ちを最優先に、ツッコミどころを「ハッタリ」で誤魔化しながら「それでいいんじゃい!そういうもんなんじゃい!」と一点突破。この「外連」ぶりがなかなかなのである。意外だが、その点に関しては新海監督は非常に腹が据わっている。だから物語と演出に勢いがある。思い切りの良さだけを頼りにグイグイ観客を引っ張って行くのである。
振り落とされるか、踏みとどまるか。そこは人それぞれなのだと思う。



さて。

 「君の名は。」が公開されたすぐ後に「グランド・イリュージョン」の続編が公開された。その続編の感想はまたの機会として。僕はこの「グランド・イリュージョン」の第1作目は、その年のベストに入れるくらい好きなのだが、その理由はやはり「んな無茶な」っていう「オチ」に向かって「外連」の一点突破で物語をグイグイ押し通すところなのである。そういう意味では実は「君の名は。」は非常に僕好みの映画なのかもしれぬ。
その「グランド・イリュージョン」の原題は「NOW YOU SEE ME」という。「見えますね見えますね」というマジシャン用語からの引用で、その後に「NOW YOU DON'T(ほら消えた)」と続く。


この映画はその逆を行く。「失ったように見える。けれどそうじゃないよ。」という「絶望の中の希望」を描こうとする。
「消えたね?消えたね?ほら現れた。」
名は消えても君の「存在」は覚えている。新海印の演出やモチーフを取り入れながらも「他者と自分」ではなく、「他者と他者」が出会う物語を生み出してやる!というストーリーテラーとして勝負した新海監督の新境地への綱渡りは、ツッコミどころで振り落とされなければ確実に楽しめる事請け合いである。ここ一番の大作で自分の描きたいものに忠実になれるその作家的自我の強さ。それが良い目に出た。結果は重畳である。大好き。(★★★★☆)
 
 

「逆転裁判6」


逆転裁判6 - 3DS

逆転裁判6 - 3DS


 「4」「5」と続く「新・三部作」の最終章としても見事でアリ、ディストピアゲームの本懐に返り、そしてシリーズ屈指の逆転を叩きつける快作です。プレイ時間は長めですが、面白いので、お暇なら是非。
 

「ONE PIECE FILM GOLD」

toshi202016-08-16

監督:宮元宏彰
原作・総合プロデューサー:尾田栄一郎
脚本:黒岩勉




 「逆転裁判」というゲームがある。最近アニメ化もされ、知名度も格段に上がったので知らない人は大分少なくなったように思う。


 改めて説明すると、「逆転裁判」というゲームは新人弁護士・成歩堂龍一が、裁判で何度も逆境を経験しながらそれをはねのけて、依頼人の無実を晴らしていくというゲームである。
 ボクはGBA版から連綿とシリーズ、及びスピンオフを遊んできた生粋のシリーズファンで、今年発売された最新作「逆転裁判6」も当然速攻で購入しプレイ、クリアしている。


 「逆転裁判」というのは、実は時間軸が「実際の日本」とは微妙に異なる世界にある。これはリアルな司法制度の世界では、簡単には「無実の依頼人」というのが現れないため、「無実の罪で逮捕され有罪にされる可能性」を高める世界観になっているのである。
 それがこの世界にある「オリジナル司法制度」、「序審法廷制度」という。内容を一言で言うと「犯罪者多くってさっさと裁判を片付けないと裁判が終わらないから、3日で判決を出して円滑に裁判回していこうぜ!」という制度である。


 この「時間の区切り」が「警察の誤認逮捕」「検察のひとり勝ちしやすさ」「無実の人間を精査する時間のなさ」を生み出しつつ、主人公が「無実の依頼人」と出会う確率を上げて「ゲーム中の裁判がスピーディーに展開する」というゲームの面白さに寄与するという、一石二鳥のアイデアだったのである。
 だから弁護士は常に逆境に置かれ、一方検事の方は「25年間無敗」とか言う、よく考えたらメチャクチャな存在がいたりするのである。


 つまり、「逆転裁判」シリーズとは、痛快無比の裁判ゲームでありながら、同時に「序審法廷制度」という存在をキーにした「ディストピアゲーム」でもあるのだ。


 そしてこの「序審法廷システム」で戦い続けるいわゆる「成歩堂龍一三部作」と言われる「1」「2」「3」はファンの中でも「歴史に残る傑作」として記憶されている。
 だが、この「序審法廷システム」をどう破壊していくか、というテーマに立たされたのが、新主人公、王泥喜法介が登場して以降の「4」「5」「6」の新三部作ということになる。
 とくに「4」以降の迷走は「ディストピア設定」を壊していくことが求められたが故の苦闘の後がにじみ出ていると言ってもよく、再登場した成歩堂龍一が無駄に存在感がありすぎるため、主人公禅譲がスムーズに行かない事も手伝って相当に苦闘することになる。
 つまり「ディストピア」であることが「ゲームの説得力」と不可分だったシリーズが、それを変えようとする物語が付随する難しさと煮え切らなさがどうしてもつきまとうわけである。


 しかし。最新作「逆転裁判6」ではその「ディストピア性」がより深くなって大復活することになる。
 そこにあるのは逆転の発想である。「日本がディストピアでなくなったのなら、架空の外国になるほどくんを行かせ、そこを弁護士にとってのディストピアにしちゃえばいいじゃない!」ということである
 成歩堂龍一が行った国は「クライン王国」。「成歩堂龍一3部作」でパートナーを務めた霊媒師・綾里真宵が行う、倉院流霊媒術発祥の国でありながら、「裁判において弁護に立った者は死刑」という、「弁護罪」なる罪が法制化されてしまった国なのである。
 そんな国で「弁護士」として弁護に立つことになってしまった成歩堂龍一の物語!ということになる。


 ディストピアだからこそ「逆転」はより快感となるということである。そして、成歩堂くんたちは「ディストピア」である「国家」で最高の逆転を引き起こすことになる。





 さて、前振りが長くなりました。「ONE PIECE FILM GOLD」である。超人気漫画「ONE PIECE」劇場版としては13作目であり、原作者・尾田栄一郎が総合プロデュースする「ONE PIECE FILM」シリーズの3作目。



 この物語の舞台は、国家として認められたギャンブルとエンターテイメント施設を満載した巨大船「グラン・テゾーロ」。そこを支配しているのはギルド・テゾーロ(山路和弘)という男。カジノ王と呼ばれ、全世界の20%もの金を所有し、世界政府すら金の力で意のままにする事ができるほどの財力を持ちながら、同時に毎晩「グラン・テゾーロ」で舞台に立つ人気エンターテイナーとしての顔も持つ。そして「悪魔の実」の「ゴルゴルの実」の能力者でもある。
 そんな船に乗り込み、ギャンブルと娯楽を堪能していたモンキー・D・ルフィ率いる「麦わらの一味」一行は、ギルド・テゾーロに見込まれ、破格のギャンブルを仕掛けられることになる。


 舞台となるのが「ギャンブル」と「エンターテイメント」という「きらびやかな光」の側面を映画序盤でたっぷり見せつつ、実はそんな「国家」にも「まばゆい光」ゆえの「深い闇」が存在することがわかってくる。
 ギャンブルに負けた者達は全員、テゾーロの奴隷となり、船を出る事はかなわない。人間扱いすらされない。そこで育った少年達は「反抗したって無駄なんだ」と諦観を漂わせてさえいる。
 そんな「グラン・テゾーロ」で仲間の剣士であるゾロを捕らえられたルフィー達は、彼らを取り戻し、テゾーロ一味に支配されたこの「国」をひっくり返すために、この国に眠る「宝」を奪うために潜入していたナミの旧友で女泥棒のカリーナ(満島ひかり)とともに、反攻作戦を実行に移すのであった。



 大富豪であり、国家の主であり、エンターティナーでもあるギルド・テゾーロの口癖は「エンターテイメント」である。彼は「反攻」する人間を泳がせながら、その反攻作戦を公の場で屈服させる様を娯楽として観衆に供する、という趣味がある。これは「反攻しても無駄である」というメッセージを「被支配層」に叩きつける意味合いもある。


 だが、その公開された「反攻」がもしも成功してしまったならば。エンターテイメントは「反攻」の方となる。



 つまり、「革命」だ。





 世間から飛び出し、世界をかき回す「愚連隊」が、ふらっとやって来た「国」のかたちをまるごとぶっつぶす。時代劇から「カリオストロの城」から何から、最高の「娯楽」とはいつだって「ディストピアをぶっつぶす革命」だった!


 「ONE PIECE FILM GOLD」はそんな本来あるべき「娯楽の快楽」に忠実な映画である。悪辣な王にも哀しい過去はある。だが、テゾーロはそんな過去を振り払い、「金に執着し、支配欲にどこまでも忠実な、悪の権化」に墜ちてしまっている。この映画において、テゾーロはどこまでも最強で、そして悪辣な存在として君臨し続ける。
 ルフィはそいつをぶっ倒すまでひたすら能力のすべてを王にぶつけるのである。



 ルフィの背中はやがて、疲れ切った大人達を、諦めに満ちた子供たちを高らかに鼓舞し、やがて「グラン・テゾーロ」という「国」は崩壊へと向かう。


 暗闇の中で、それでも拳を挙げねばならない。反攻こそ、革命こそが最高のエンターテイメントだ!そう高らかに歌い上げるアニメーション映画が、この超人気シリーズの最新作である事は大変に痛快だと俺は思う。
 シリーズ屈指のエンターテイメント快作である。大好き。(★★★★☆)

「ジャングル・ブック」

toshi202016-08-15

原題:The Jungle Book
監督:ジョン・ファヴロー
脚本:ジャスティン・マークス
原作:ラドヤード・キップリング


 本当の闇をあなたは知っていますか。まわりに一切の光がなく、夜目は一切利かず、ただ、漆黒がある。
 文明に生きているとつい忘れがちになるもの。ボクはかつて体験した暗闇は河原でのものだった。一切の電灯がなく、空の星の光は届かず、かすかに遠く光が見えるだけであとは、闇が自分の全身を包み込んでいる。
 そうなると人はぞっとするわけである。一気に五感がうめきをあげる。なにもない闇の中で、自分にとっての救いは遠くに見える「明かり」だけである。人間にとってはまさに、光無き世界は恐怖でしかない。
 なぜそんな事を思い出したかと言えば、本作を見たからである。


 で、その「ジャングル・ブック」。見事である。


 基本的に言うなれば、アニメーションの実写化というものがここまで来たのかという思いを抑えきれずにいる。というよりも俳優だけで、撮影はブルーバック。動物も背景もすべてCGというのが、この映画の宣伝文句でもあって、その字面だけ追うと映画ファンからは反発の声が出てくるのもむべなるかなと思うところである。
 だが。実際見てみて、その映像のすさまじさに吹っ飛ばされた。ここまでやれるのか!という驚きである。一言で言えば、現時点でもっとも芸術的に完成されたCG映像と言って過言ではない。


 「アイアンマン」のジョン・ファブローの演出手腕をもってすれば、ここまでの事が出来るという証左であろう。
 つまりである。作り手の演出のコントロールさえ完璧であるならば。背景がCGだろうが実写だろうが関係ないという事を、この映画は証明してもいる。森の木々の一つ一つが美しく、荒々しい水の流れ、大自然にさらされた山肌、そして、リアルで美しい動物たちの躍動。
 自然の圧倒的なダイナミズムを遺憾なく表現しきった背景映像の迫力は、まさに芸術の域で思わず息を呑む。さらにキャラクターも素晴らしい。とくに大蛇のカーがモーグリ少年を取り込もうとする演出は見事と言っていい。



 そしてなによりも驚くべきは「光と闇」のコントラストである。これがすごい。昼間の森は暖かな光に包まれた柔らかさを醸し出しているが、一転、夜になればそこは漆黒の闇へと変わる。人間というのはそれが怖いから、闇を払う「火」を生み出した。この映画ではそれを「赤い花」と呼んでいる。


 だが、この世界では「赤い花」こそが「恐怖」と「力」の象徴として語られる。


 この映画はウォルト・ディズニーの遺作として知られるアニメーション映画を叩き台にしてはいる。だが、この映画がさらに一歩踏み込んで見せたのは、光と闇の演出により、狼に育てられた少年・モーグリから見た世界は「光があれば闇がある」という世界こそが「当たり前」の世界ということである。文明から離れ、夜は闇が降りる世界。そこで生きてきた少年にとっては人間文明の「明かり」の方が実は「恐怖」の対象と映る。
 その明かりのもとで話す人間達に異様なものに見えつつも、彼は「赤い花」を手に、育ててくれた狼を殺した虎への復讐に走り出す。


 光と闇。そして火。我々が忘れている感覚を呼び覚まし、五感を震わせる映像美と硬軟織り交ぜたエンターテイメントの粋を集めつつ、大自然への敬意を忘れない物語へと昇華した、ジョン・ファブローの見事な職人監督ぶりを再確認する逸品である。老若男女を問わない間口の広さを持ちつつ、頭からしっぽまで身がたっぷり詰まった極上娯楽映画である。大好き。(★★★★☆)


追記。
あと、個人的には吹き替え版より字幕版をオススメする。日本語吹き替えキャストが悪いとは言わないが、オリジナルキャストが素晴らしすぎる。