虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「殿、利息でござる!」

toshi202016-06-06

監督 中村義洋
脚本 中村義洋/鈴木謙一
原作 磯田道史



 中村義洋監督による、喜劇調の初時代劇映画である。


 さて。



 日本人って「サムライ」って言葉が好きだ。
 なんだろうね。日本人と言ったら日本刀持って髷結って馬乗ってね。俺達日本人は「昔からサムライだ」なんつってね。なにかっつーたら「武士道」だ、「侍魂」だ言うじゃんか。
 ま、あたくしも好きですよ。時代劇は昔から好きだし、チャンバラ好きだし、子供の頃は偽のプラスチック刀ぶんぶん振り回して、「暴れん坊将軍」の松平健とか、「長七郎江戸日記」の里見浩太朗を真似て「成敗!」とかやってましたよ(渋い子供だなオイ)。まー基本的に時代劇にしたってが「刀持ってなきゃ話になんねえ」みたいなところがある。
 対して、商人なんかはね。基本的に極悪非道の悪い奴か、強盗に襲われる被害者か、人のいい理解者か、そんな脇に回るところがせいぜいでね。ましてや百姓なんかは基本的にそこらを歩いている群衆とか、モブですよね。


 士農工商。江戸時代の絶対的な身分制度。時代によっちゃその境がクズされて商人に武士が頭を下げるなんて事も出てくるわけでだけど、それはよほど成功したごくごく一部の話で、その絶対的な格差というものを容易に下げられるものではない。
 武士。その圧倒的な「支配階級」。その彼らからすれば、「百姓」や「商人」なんかは「人」ではない。体のいい搾取対象である。


 ところが、である。


 本作は主要登場人物の多くが「武士」ではない。「商人」ではあるが、彼らの身分は「百姓」である。舞台となる仙台藩吉岡宿は奥州街道に作られた「宿場町」であるが、旅人は裏街道を通るためスルーされることが多く、いまひとつ街に活気がない。そして彼らの肩に重くのしかかっているのが「伝馬役」と呼ばれる役目である。
 「お上の物資を隣の宿場町から次の宿場町まで運ぶ」という役目であるが、人足や馬を雇う経費はすべて吉岡宿の負担となり、その重い課役が彼らの懐を直撃した。仙台藩ではあっても伊達氏直轄領ではないがゆえに助成金の対象とならず、吉岡宿から出て行く者が後を絶たずに、吉岡宿は衰亡の危機に直面している。


 その衰亡をどうにかしたい。と思っている男が1人。穀田屋十三郎(阿部サダヲ)である。思い詰めた彼は、お上に上意を訴えようとしたところを、宿場一の知恵者と自称する菅原屋篤平次(瑛太)に止められる。女手ひとつで店を切り盛りするとき(竹内結子)の居酒屋で不景気な顔して呑んでいる十三郎と出くわした篤平次と話している間に、篤平次はふと、ある突拍子もないアイデアを思いつく。

「お上に一千両貸して利息を取る。」そうすりゃ伝馬役の負担は一気に解消する!
 一千両=3億円。そんな金はこの宿場町にはない。

 もちろん、こんなアイデア、現実的でない。篤平次の中では、呑みの中で出た「夢物語」である。・・・はずであった。
 だが、穀田屋十三郎はこの話に飛びつき、現実的に道筋をつけようとし始める。彼の叔父・穀田屋十兵衛(きたろう)、町の肝煎・遠藤幾右衛門(寺脇康文)、大肝煎・千坂仲内(千葉雄大)。アイデアを出したはいいが、乗り気ではない篤平次の思惑を裏切るように、計画はトントン拍子に進み、同志が思いの外、順調に集まってしまった手前、言い出しっぺの篤平次も仲間に加わらざるを得ず、「お上に一千両貸し付け計画」は始まってしまった。
 同志達は一千両を用立てるために私財を処分し、田畑や茶畑を処分しつつ、同志を増やしていく。両替屋で見栄っ張りの噂好き、遠藤寿内(西村雅彦)らもどこからか話を聞きつけ参加しはじめ、計画は順調だったが、なかなか目標額には届かない。だが紆余曲折あって「守銭奴」として評判の悪い穀田屋十兵衛の実弟・浅野屋甚内(妻夫木聡)が参加を決め、いよいよ目標額は目の前になった。
 すると計画の中心にいた十三郎が「計画から降りる」と言い出す。彼は浅野屋から穀田屋に養子に出された事がコンプレックスであり、浅野屋から彼を養子に出した父親を「守銭奴」と忌み嫌っていたのである。前途多難の計画はいよいよ暗礁に乗り上げたかに見えたが。


 この「計画」には思わぬ「真実」が隠されていた。その「真実」が、計画を力強く前進させていく。


無私の日本人 (文春文庫)

無私の日本人 (文春文庫)

 この映画の原作は磯田道史氏の「無私の日本人」という本の一篇を映画化したものである。



 無私。私はこの言葉があまり好きではない。私心を捨てて公に尽くす。如何にも教条的で、道徳的だ。
 だが、この映画はあまりそれを感じさせない。なぜかと言えば、登場人物たちは別に聖人君子ではないからである。欲もあれば見栄もある。身分は欲しい。金は欲しい。名声は欲しい。愛も欲しい。私心ありまくりだ。「町に名を残したい」「武士になりたい。」「子供に楽をさせたい」「親や兄弟を見返したい」。計画に参加する理由も様々だ。
 そしてそんな彼らが計画に巻き込まれていく、その中心に「ある1人の男」の「志」がある。


 「無私」というその字面が僕は嫌いなのだが、この映画に感じるのは圧倒的な「己」である。


 密かに思い。決意し、それを人生を賭けて貫く。それが多くの人の「私心」すら飲み込み、時を越えて多大な共感を得て大輪の花を咲かせる。そして、「支配階級」の「サムライ」たちから一つの大きな勝利をもたらしていくのである。
 「刀」も抜かない。「血」も流さない。「生き様」と「志」、そして「銭」だけがその男の武器だった。でもそれが最高にカッコイイのである。


 俺達日本人の8割以上は百姓と商人であった。みんな昔の俺達は「サムライ」だったと思いたがる。だが、もっと「百姓」や「商人」であった事も、もっともっと誇ってもいいのでは無いか。この映画の「目線の低さ」、そして「志の高さ」に僕は非常に心打たれるものを感じた。
 サムライだろうとなかろうと。大事なのは「周り」の声に踊らされない「志」なのだと。その大切さを描ききったこの映画。傑作だと思います。超・大好き。(★★★★★)