虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「伏 鉄砲娘の捕物帳」

toshi202012-11-15

監督:宮地昌幸
原作:桜庭一樹
脚本:大河内一楼
ビジュアルイメージ:okama



 桜庭一樹の「伏 贋作・里見八犬伝」のアニメーション映画化。


 というわけで、「南総里見八犬伝」からの引用を多分に含みつつ、滝沢馬琴曲亭馬琴)の晩年の年代を元にしたファンタジーとして世界構築されている。


 さて。
 私は以前、2006年ごろにこういうエントリを書いたことがある。

 みんな!引きこもるなら映画館にしようぜ!ていうかな、もうテレビアニメをいっせいに見るのやめたどうだろう。所詮あれだ、なけなしの予算で萌えアニメで作って必死にグッズで回収しようとしたり、おもちゃを売るためにスポンサーの顔色伺ったりするような、そういう状況が、ずるずるとアニメをダメにしていると思う。そういう状況を一度リセットすればいい。

 暴論は承知。だがもう、いいじゃん。採算採れなさそうな企画とか全没にしちゃって、人気のあるテレビアニメだけ残して、その分予算を劇場用に回さない?東映なんて毎回掛ける映画に困って、幸福の科学アニメを今年もやるんだよ?だったら、東映系すべてオタク枠にして、アニメ映画ばっかり流せばいいんだよ。つまんないアニメは儲からないけど、作品次第では儲かるような構図を作る。
新・オタクのたしなみ - 虚馬ダイアリー


 このエントリはテレビアニメは粗製濫造的に作られていて、その割に公開される劇場用アニメーションの少なさにいらいらとしていた頃に、「テレビアニメなんてやめて劇場用アニメばっかりをつくればいいんじゃね!?」と衝動的に書いたエントリなんだけど、このエントリに込めた私の願いは、半ば歪んだ形で、叶うことになって現在に至る。
 アニメオタクは劇場に駆けつけるようにはなった。ただ、映画館で流れるアニメーション作品の多くは、あくまでもテレビアニメの「劇場版」であって、「劇場用アニメーション」ではないという、皮肉な形に収束されている。つまりテレビアニメで引きつけた客層をそのまま拾う形での「劇場版」アニメーションである。興業としては安定しているのだろうが、それは俺が望んだ「リスクを越えて物語る意思」を持った「映画」とは少々異なる。


 ただ、良かったこともある。劇場版を意識するということは、つまりある程度アニメーションとしての質が良くなければならぬ、というテレビアニメの質の底上げになったこと、劇場用アニメーションとしてアニメスタジオに興行収入が上がれば、それはスタジオの利益になること。
 そして、金銭的に余裕が生まれれば、こういう「劇場用アニメーション」の企画も通りやすくなるということである。


 しかし、まだまだ私が、そのエントリを書くときに思い描いたような「理想的な環境」からはほど遠いと痛感させられもする。
 脚本を担当する大河内一楼氏はテレビアニメーションにおいては力のある脚本家だけど、映画になると空回る印象があるのだが、この映画もややその気が見られる。


 開国の足音が迫る時代、ヒロインで8匹の伏(人と犬のあいのこ。人の生き魂を喰う。)を狩る狩人として、侍を目指す兄に呼ばれて江戸に来た娘・浜路と、伏であることを隠しながら役者として生きる・信乃が出会い、惹かれ合うものの、やがて正体を知った浜路と信乃の関係はどうなるか、というのがメインプロットなのだが、そこに滝沢馬琴の孫娘・冥土を語り手にして、虚構を生み出すまでの物語という側面を描くなど、数多く登場人物にそれぞれの背景を配しつつ、それぞれのサブプロットを多重的に組み込んでいる。
 だが、どうにも個々の話がドラマとして描くには尺が足りない印象で、本来ならテレビドラマ1話分ずつかけないと深まらない物語を羅列している印象があって、どうにも乗らない。伏としての自分を隠しながら太夫として吉原で身を売る凍鶴の悲話などはともかくも、浜路の兄ちゃんと長屋の娘との間に子供が出来て産むの産まねえのみたいな話は、メインの話を停滞させただけであまり意味ない感じなので、それとなく観客に匂わせるだけでばっさり切っても良かった気がする。


 監督は「千と千尋の神隠し」で監督助手を務め、テレビアニメ「亡念のザムド」で監督デビューを果たしたスタジオジブリ出身の宮地昌幸監督ということで、どことなくジブリ的なものを感じさせる手つきで、イメージとしては「もののけ姫」の男女逆転版のような印象もあるのだが、江戸というある種ファンタジーの舞台とするにはあまりにも完成されすぎた街を舞台にしてしまった分、ファンタジー色溢れる遊びにはいささか興を削がれることたびたびである。


 しかし、である。こういうアニメーションを作ろうとする意思を通すこと。こういう力の入ったアニメーションを作る若いクリエイターが現れたことには、頼もしさすら感じる。テレビアニメの作り方に「寄って」しまって、物語の力の入り方や世界観の創意工夫の「力点」がズレているとは思うものの、クライマックスに向けてなんとかすべての挿話を一点にまとめて、突破しようとする意思をこの映画は最後に示す。
 テレビアニメの劇場版で客層をローリスクで引っ張り込もうとする流れの中にあって、リスクを越えて、偉大なる虚構「南総里見八犬伝」を向こうに回し、江戸を舞台にしたファンタジーのアニメーション娯楽映画をぶったてようとすること。この映画にはそのみなぎる意思がある。その意気にこそ、この映画の価値があると思うのである。この流れは非常にいいと思う。
 そんな新鋭・宮地監督の「劇場用アニメーション」次回作と、彼に続く才能の出現に期待します。(★★★)