虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「悪の教典」

toshi202012-11-10

監督・脚本:三池崇史
原作:貴志祐介


「ひとつ人の世の生き血をすすり、ふたつ不埒な悪行三昧、みっつ醜い浮世の鬼を」(「桃太郎侍」より)


 ボクは昔から時代劇が好きである。庶民を虐げる悪役がいて、その町民の前にふらりと現れる誰ともわからぬ侍。乱暴狼藉から助け、感謝されるもその町民はやがて、悪役の手によって窮地に陥る。許せぬ。そこへ敢然と立ち上がり、悪の本陣へと乗り込む侍。待ってましたとばかりに食い入るように見る視聴者との一体感。
 悪事が露見することを恐れた悪役は、口封じに手下を集めて侍を取り囲む。しかし、侍はひとり、視聴者にはおなじみの口上を述べながら、敵を切り伏せていく。ひとり、またひとり。次々と倒れていく手下たちに焦りを隠せない親玉。そしてやがて、ひとりになった親玉は最後のあがきで逆襲しようとするも、侍に一刀の元に成敗されるのである。


 しかし、である。同時に思うのは、これは明確な「殺人」である。弱き者を虐げる強者がいる。しかし、さらなる強者が1人、または複数乗り込み、「悪役側」のすべての人間を死に追いやる。主人公の侍の側に「正義」がある、ゆえに「悪人」は斬り捨てても良い。これは、かなり乱暴な話ではある。視聴者はそれには目をつぶり、また来週もクライマックスの殺陣を見るためにチャンネルを合わせる。


 さて。ひるがえってこの映画はどうなのか。
 この映画は「見た目さわやか、人当たりもよく性格も明るく人気者の英語教師」が実は、「シリアルキラー」だったら・・・という物語である。ハスミンの愛称で呼ばれる蓮見先生(伊藤英明)は絵に描いたような「誰からも慕われる」先生。だが、彼の素性を怪しんでいる者がいた。彼は生まれながらの「サイコパス」であり「快楽殺人者」。素性を怪しむものが1人、また1人と現れるたび、彼はその人間たちを次々と「消して」いく。
 しかし、彼が工作を行うたびに、怪しむ人間は連鎖のごとく現れる。文化祭の前日の夜。クラス全員が泊まり込む日。予定外の殺人をする羽目になった蓮見は、その「予定外の殺人」を覆い隠すために、「裏工作」を交えながら、自分が受け持つクラスの生徒を1人1人、殺し始める。


 蓮見は「正義」ではない。圧倒的な「完全悪」である。真っ黒だ。彼は己の中の「業」のために、そして「社会」から自らの「本性」を覆い隠すために脅迫し、そして、殺す。教師。保護者。生徒。男女の区別すらなく、邪魔者は「消す」。そんな悪が、自分の一つの「悪」をもみ消すために、さらなる悪を犯す。正義の味方などいやしない。「悪」は「悪」の中にある、歪んだ「正義」のために、人を殺す。あるのはどす黒い「悪意」だけ。泣き叫び、逃げ惑う生徒を、1人。また1人。血糊の量も景気よく、ショットガンで撃ち殺す。


 ショットガンで獲物を追う姿はまるで「ノーカントリー」のハピエル・バルデムのようだが、この映画の生徒は見つかったら最後、逃げることすら許されない。蓮見は狙った獲物は決して逃がさない。ほぼ一発で生徒たちの命を消していく。見つかったら、死ぬ。
 これはもうバラエティー番組「逃走中」に近い。視認されたら逃げられない。


 無辜の生徒を教師が殺す。圧倒的強者が、年端もいかない子供たちを惨殺していく。そんな映画である。なのに、俺は殺戮シーンに「恐怖」の中に「快楽」を覚えている自分に気づいてしまう。これは、そう。「時代劇」。そして蓮見のショットガンアクションの流麗さは、どこか「殺陣」のように見える。まるで、時代劇のクライマックスのようなのだ。
 劇中、蓮見のお気に入りの曲として何度も変奏される「三文オペラ」の「マック・ザ・ナイフ」が、殺戮シーンの中鳴り響く。時代劇の殺陣のシーンで流れる勇壮な音楽のように。


「ひとつ人の世の生き血をすすり、ふたつ不埒な悪行三昧、みっつ醜い浮世の鬼を退治てくれよう桃太郎。」


 桃太郎侍は殺陣の前の口上をこう述べる。だが、この映画では「醜い浮き世の鬼」が「無辜の民」を惨殺していく。三池崇史は、これほどの「悪逆」な行為を、「快感」を伴わせて演出する。追い詰められる「恐怖」と「緊張」を感じながら、同時に独特のリズムで「消えていく」命のシーンに、追い詰めて殺す「快感」が付随する。この映画はそんな「背徳」が観客の心をとらえて離さない。
 圧倒的恐怖とともに、あまりに、あまりにインモラルな快感に震える。この映画はそんな映画である。(★★★★★)


暗殺教室 1 (ジャンプコミックス)

暗殺教室 1 (ジャンプコミックス)