虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ダークナイト ライジング」

toshi202012-07-30

原題:The Dark Knight Rises
監督:クリストファー・ノーラン
脚本:ジョナサン・ノーラン/クリストファー・ノーラン


 バットマンとは何か。バットマンは誰か。そして、バットマンはどこへ行くのか。


自分は以前、「ダークナイト」についての感想の中でこう書いた。

http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20080809#p1

 この映画において、ブルース・ウェインが口にする、ジョーカーに対する「勝ち/負け」の概念とは、彼がバットマンとなって以降行ってきた「正義の伝道」を民衆が肯定するか否定するか、ということである。ブルース・ウェインは基本的にそのためにバットマンを続けているのであり、素顔のバットマンが現れるのならば、それが一番いいと思っている。その努力が実を結ぼうちしたその時、それを覆しにきたのが「ジョーカー」だった。
 バットマンの「正義のプロデュース。」に対して、敢然と立ち上がり、混沌を振りまきながら、やがて「バットマン」に正義の十字架を背負わせ続けようとする。
闇の落とし子たち「ダークナイト」 - 虚馬ダイアリー


 クリストファー・ノーラン版のシリーズにおけるバットマンとは。ゴッサムシティという都市の市民に、正義を伝道するものである。正義の心に導く者。悪に畏怖を与え、悪を捕獲する。そのために「中の人」ブルース・ウェインクリスチャン・ベール。お金持ち。孤児。)はとある闇の組織で鍛え上げた肉体、そこから生まれる体力、私財と企業が保有する技術を総動員して、様々な武器やらを作り、オーバースペックなゴツいバイクやら、軍事車両さながらの車を駆り、「演出」しながら悪にみずからの存在を「ゴッサム・シティ」の悪党どもに示し続けた。
 そんな彼も、収まらぬ犯罪に次第に二重生活に対して体力の限界を感じ始め、「光の騎士」と呼ばれる新進気鋭の検事ハーヴィ・デント(アーロン・エッカート)の存在を知り、共同戦線を張ってみた上で、彼をブルース・ウェイン名義でバックアップすることで、バットマンの後釜に据えようとした。
 しかし、光の騎士は「ある者」によって、彼の中にあった「正義」への怒りを、「悪」の怒りに染め上げられてしまった。ある者の名を「ジョーカー」という。バットマンブルース・ウェインは、大切な友人の息子を救うためにハーヴィを死に至らしめてしまうが、その友人・ジム・ゴードンゲイリー・オールドマン)に、ハーヴィを「正義の虚像」としてプロデュースするように頼み、バットマンはその「正義」を殺した男という汚名を着て、「闇の騎士」として世間から消えた。


 という前段があっての本作である。


 物語は8年後から始まる。「光の騎士」のプロデュースは順調だった。ハーヴィ・デントの名において、悪を根こそぎ奪い去る法律が可決。その名を「ハーヴィ・デント法」というらしい。具体的にはどういう法律なのかさっぱり語られないけれど、もはや「ダークナイト」の出番はないほどに、ゴッサムは秩序を取り戻していた。それでもゴードンは職務に邁進していたが、かつてゴッサムを救った「英雄」とされる彼にも「左遷」の噂が出始めていた。
 
 その「ダークナイト」の中の人はどうしているか、というと、「バットマン」という虚像をなくした彼は、実像の「実業家」ブルース・ウェインとしてはさっぱり身が入らず、しかも長年の掛け持ちヒーロー稼業による肉体へのダメージが蓄積された結果、肉体はボロボロ。最愛の人を「ジョーカー」に殺されたショックを引きずっていることもあり、すっかり覇気をなくして、さりとてゴッサム・シティからも離れられず、屋敷内に隠遁を決め込んでいた。
 ブルース・ウェインとしても「ダークナイト」の呪縛に縛られて前へと進めない事態に、バットマン稼業を陰日向となり支えてきた執事・アルフレッド翁もさすがに困り顔を隠せない。
 しかし、そんなブルースにさらなる追い打ちが入る。彼の金庫から「指紋」が盗まれるという事件があった。盗んだのはメイドに化けた女泥棒・セリーナ・カイル(アン・ハサウェイ)。彼女は「自由」を得るための「あるモノ」との交換条件のために「ブルースの指紋」を渡すが、裏切られ、みすみすタダ働きをする羽目になる。その指紋は悪用され、ブルース・ウェインは破産へと追い込まれてしまう。
 そして、一見平和を取り戻したかに見えたゴッサム・シティの地下世界に再び「邪悪なる者たち」が再び集結しつつあった。その「リーダー格」の男の名は「ベイン」。マスク姿に屈強な肉体と、狡猾でしたたかな内面を持つ怪人である。事件を追ううちに彼らと出会ってしまったゴードンは撃たれて重傷を負い、病床でゴードンは「バットマン」に再び「立ち上がる」ように頼むのだった。


 前作においては「正義」対「悪」の死力を尽くした「虚像をプロデュース」対決を余儀なくされた結果、痛み分けで世間から隠れざるを得なくなったバットマン


 今度は「虚像」「バットマン」どころか「実像」「ブルース・ウェイン」としてもすべてを賭けた全面戦争を余儀なくされていく。
 「ベイン」及びその一派は、ブルース・ウェインが持つ経済力・技術力・名声、そしてブルースが信頼する人々までも、一枚一枚彼から引きはがし、まるで城の内堀外堀を埋めるかのように、「バットマン」を無力化しにかかる。そして、「バットマン」が愛する「ゴッサムシティの市民」たちをも自らの勢力に吸収し、新エネルギーを元にした核融合爆弾で、民衆の心に恐怖を植え付けつつ、街を支配していく。
 そして、敵地に乗り込んだブルースは敗れ、敵の手に落ちる。一部市民と犯罪者が暴走し、混沌とするゴッサムに、バットマンはもはや現れないのか!?べべん。


 本作は「傑作」というにはストーリー的な瑕瑾が多すぎる気がするけれど、だからと言って「駄作」「凡作」と断ずるには、しかしIMAXシアターで最高の音響で見た上で、「165分」という長丁場でも、一時も目の離せない映画体験であったこともまた事実である。前作「ダークナイト」は、言ってみれば「正義のイカレ男」VS「悪のイカレ男」という二人の、市民伝道するための死闘だったのだが、今回は純粋に「正義」と「悪」の力と力によるぶつかり合いである。


 「ヒーロー稼業」は呪縛のようなものである。


 快感と痛みが同居するこの仕事は、身体や心の損傷以上に、高揚があるのだと思う。
 執事のアルフレッドはブルースの中に、「ダークナイト」が用済みになった社会になっても「バットマン」が深く根付いていて、それを憂い「ブルース・ウェイン」個人の幸せを取り戻して欲しいと願い、彼の元を去る。


 その願いを知りながら、ブルースは文字通り「奈落」の底に追い詰められても、そこから這い上がり、再びゴッサムに「バットマン」として舞い戻る。何故か。それでもなお、「正義はここにある」とゴッサム市民のために示さなければならない、という「正義プロデュース稼業」のラストワークだからである。
 悪役の動機目的手段が不明瞭で矛盾に満ちている、という突っ込みは承知の上で、それでも、なお、あーいう展開になったのは、ブルースは一度経済的、肉体的、精神的に完全に追い込まれ、なおかつ「死の恐怖」とともに生き死にの境目を経験することで、「バットマン」としてだけではなく、「ブルース・ウェイン」個人としての「生」を取り戻さなければならなかった。


 最後にして最大の大仕事。それは愛するゴッサムシティを全力で救い、その上で人々の心に「バットマン」を永くそして深く刻みつけること。それが、彼が8年前に深く傷つけ合いながら痛み分けした「ジョーカー」との対決に真に勝利するために、そして「闇の騎士」という呪縛を越えて、再び「ブルース・ウェイン」としての人生を復活させるために不可欠だったのだと思う。
 こういう戦いを経なければ、ブルースの中で「ゴッサムシティ」からの呪縛を振り払うことはあり得なかったろう。


 すべてが決着し、ひとりの若者に「志」が受け継がれ、そして映画はラストシーンの、アルフレッドが見る、とある光景へとつながっていく。ああ、これがやりたかったんだ、と思った瞬間、物語の瑕瑾などどこかへ吹っ飛んでしまい、ぼくはただただ、感動していた。


 バットマンの正体?決まっている。バットマンだよ。」


 ただ、「さらば。」と言おう。この映画は、そういう意味で、清々しいほどの「完結編」である。(★★★★)