虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ALWAYS 三丁目の夕日'64」

toshi202012-01-23

監督:山崎貴
脚本:山崎貴古沢良太
原作:西岸良平


 はい。てなわけで。


 みなさまおなじみ、待ってた人も待ってない人も知っている「ALWAYS 三丁目の夕日」三度。
 見ました。


 変わってません。時代が移り変わっても相変わらずに「三丁目の夕日」であります。


ALWAYS 三丁目の夕日」感想
http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20051106#p1

 優れた原作を叩き台として山崎貴監督が生み出したのは、圧倒的なディテールで描き出した「昭和33年の夕日町」という名の「箱庭世界」である。とにかく、昭和30年代的物質で埋め尽くした、その圧倒的な「昭和30年代」感を「演出」してみせている。ここで重要なのは、当時の町並みの再現ではなくて、昭和30年的な「記号」の集積によって時代を「戯画化」していることだ。言わば、「昭和30年代」をテーマパークとして、提示してみせたのである。

 これ、俺が公開当日に見に行って書いた感想からの抜粋なんだけど、この映画の骨格は第1作目ですでに完成されていて、ブレていない。つまり、この映画を好き/嫌いという人の「割合」も多分、1ミリも動かない映画ということで間違いない。


 ただね。こういう映画が出てきて「いいな」と思うのは、「刻の流れ」を自覚できることだと思うのね。


 つい先日までWOWOWで「男はつらいよ」の一挙放送というのをやっていて、とりあえず全部録画することにして、いくつかの録画失敗をしつつも大体の作品を録画してたんだけど、まー、基本構造はほぼ変わらないわけです。
 寅さんが冒頭に夢を見て、目覚めてオープニングで歌が流れて、柴又でおいちゃんたちが「そういや、寅はなかなか帰ってこないね」みたいな話をしてるところに、ひょっこり寅さんが帰ってくる。だけど、なんだかんだケンカして旅に出て、その旅先でマドンナに出会って、という流れでね。


信仰の現場―すっとこどっこいにヨロシク (角川文庫)

信仰の現場―すっとこどっこいにヨロシク (角川文庫)


 ナンシー関が以前、「信仰の現場」という本で、毎年「男はつらいよ」シリーズを見に劇場にやってくる人々の行動を<信仰>と見立ててルポしていたのが凄く印象に残っていたのだけれど、俺もどちらかというとナンシー関側の見方をしていた。子供の頃、この「男はつらいよ」の魅力が1ミリも理解できてなかったんですよね。分からなかった。ただただ長く続いてるシリーズという認識しかないんですよね。見ても毎回同じことやってるしで、何が面白いんだろうと思ってた。
 でも、三十路を越えた今になって見たらね。面白いんですよね。
 シリーズ初期にあったはぐれものの哀しみみたいな描写はやがて蔭をひそめて、寅さんの存在自体がファンタジー化していくけれど、それでも柴又の「親戚たち」はなんだかんだと色々変わっていく。第2作目で生まれた満男(中村はやと→吉岡秀隆)はだんだん大きくなって人生迷走しはじめたり後藤久美子といろいろあったりしながら寅さんとの二枚看板級の登場人物になっていくし、とらやに新しい従業員が来たりとか、映画の世界観の骨格が強固である分、ちょっとした変化が大きな変化に感じられたりもする。
 複数回出てくるマドンナのリリーと寅さんの関係なんかを見ていると、好き合っている者同士でも一緒になれるとは限らない男女のあやが見えたりとか、独自の魅力が見えてくる。渥美清の遺作となった「寅次郎紅の花」なんか見ているともう寅さんとリリーがタクシーに一緒に乗るシーンで泣きそうになるわけです。
 「寅さん」を何故、ファンは毎年見るほどハマっていたのか、最近になってその魅力が、おぼろげながら理解できたところに本作です。


 人間は年齢を取る。俺にとっては第1作が公開された2005年は「ついこないだ」だけれどもその年に小学生だった子はもう中学生も終わりなんだよな。ということを、「ALWAYS」3作目にしてはたと気付かされるわけです。つまり、リアルタイムでシリーズを追いかけている観客にとっては、「三丁目の夕日」の夕日町三丁目は、いつの間にか、「寅さん」における「柴又」になりつつあるのだということなのである。
 登場人物たちへの目線はもはや「親戚」への目線に近くなっている自分に気付くわけです。
 この映画が描いているのは「強固に作り上げられたファンタジー」の中でも確実に人生は動いているということです。第1作目が昭和33年の6年後、昭和39年という時代。公開日から6年経って舞台も6年後になっている。子役達も成長し、オトナたちは年齢を重ねている。それを前提とした物語構造になっているわけです。


 今回は第1作で鈴木オートに就職した六子ちゃんの恋愛話、山崎監督の投影とも言うべき茶川竜之介の父親危篤話に、彼が1作目で引き取った古行淳之介の将来についての話をメインプロットに、それぞれの人生を切り取っている。
 ろくに道具の名前も知らなかった六子ちゃんは今や鈴木オートで社長に説教できるほどのベテランだし、小学1年生だった子供達は今や中学三年生のモテたい盛りになってるし、茶川は時代の流れで児童読み物の世界から追い出されそうになってる。
 箱庭の「テーマパーク」然としていた第1作から第2作を経て6年という歳月が経つ中で、「変わらない強固な世界観」の中で物語が「熟成」されてきている。だからこそ、「ベタ」とも言える笑いや話立てでも安心して見ていられるし、登場人物への目線ももはや「田舎の親戚」へのそれになりつつあるわけです。


 出会いがあれば別れがある。第1作目が「出会う」物語だったとすれば、第3作目は「別れ」の物語。この映画で3つの「別れ」が描かれます。それぞれのエピソードがやがて有機的に結びつき、観客の笑いと涙を誘います。泣きましたよ。ええ。なにをこんなベタベタなエピソードに、という話なのに涙が止まらないですよ。
 舞台は「現代」に近づきながらも、刻の流れは「リアルタイム」。近づいてくるようで近づきすぎない、「現在」と距離を保った「ファンタジー」の向こう側に、喜びも悲しみも人生もある。そんな「当たり前」を当たり前のように描ける熟成されたシリーズは、3作目にしていよいよ得難い存在になってきたと思うのです。(★★★★)


関連エントリ
「ALWAYS 続・三丁目の夕日」感想
http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20071103#p1
私がこのシリーズを肯定的に書く理由が書いてあります。