虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「告白」

toshi202010-06-06

監督・脚本: 中島哲也
原作: 湊かなえ



 例えば、である。
 私が刑事に向かって自らの犯罪を、「自白」する。自分のやったこと、犯した罪について、話す。微に入り細に入り、自らの犯罪を吐露する。
 または、教会の懺悔室にて、神父を介して神にみずからの秘密を「告白」する。私は罪深い人間です。なぜならこうこう、こういうことをしてしまいました。etc、etc。


 さて、それらの「告白」は果たして真実なりや?



 この映画はひとりの女性の「告白」から始まる。シングルマザーで、娘の父親はある病気にかかっていて、それが原因で愛し合っていながら結婚をあえてしなかった。父親はその病気のため、娘を抱きしめることすら出来ずにいる。彼女にとっても、彼にとっても、大事な大事な「娘」を彼女は育てていた。
 そして彼女は、教師だった。
 その「娘」が先日、亡くなった。父親が娘を抱きしめた時、娘には魂がなかった。


 終業式の日。女性は言う。生徒の32人に向かって。「娘」は殺されたと。そして犯人はあなた方の中に2人いる、とも。


 彼女は犯人を決して名指しはしなかった。ただ、「A」「B」とだけ呼び、彼らの特徴と彼らが犯した行為を述べ、彼らにした「ある事」を告げる。クラスは騒然とし、彼らの心に深い爪痕を残す。そして彼女は、教師の職を辞し、学校を去った。



 この映画は、複数人の「告白」によって構成されている。教師。女子生徒。「B」。「B」の母親。「A」。彼らには彼らなりの人生があり、事実の見え方はそれぞれによって違う。「告白」は自らについて、かなり詳細にかいている。自分の抱える孤独、目の前に直面した現実、そして自分の抱えた、誰にも言えない「秘密」。
 それでもなお。「告白」というものは、決してすべての「真実」を明らかにするわけではない。人間は、本当の真実は決して口にすることはない。「告白」を聞く相手。または読む相手を、意識ながら紡ぐ言葉であるならば、それは「伝えたい」と思うある「一面」を強調して話すものである。


 「告白する」ことが事実だったとしても、それは真実の全てではない。彼ら、彼女らには、「告白しない」ことが、ある。


 告白は、「こう見て欲しい」自分というものを内包するものだ。だが、人間とは一面的ではない。「キャラ」を作ったとしても、その「キャラ」は彼らが持つ「仮面」の一つであり、告白するときにも我々はまた、もうひとつの「仮面」を作り上げているものである。
 この映画が一級のエンターテイメント演出で、彼らなりの告白が紡ぎ出す「インディーズな孤独」を描き出しながら、同時にそこにある、仮面をもひっぺがす。


 「A」や「B」の孤独や、自意識。揺れ動く心を微に入り細に入り、描きながら、この映画は安易な救いなど与えはしない。
 殺さず。ただ、許さず。そんな教師の、いやさ「母親」の情念は、告白されたそれよりずっと深い。そしてそれが、最後に「どかーん!」と「爆発」するラスト。そこには快感などはなく、苦い後味だけが残る。正しさなどはない。どこからが間違っていたのか。どこからが正しいのか。この映画は決して断定することはない。ただそこには、荒涼とした地獄の風景がある。
 娯楽映画作家としての矜持を失わないでなお、事件に関わった、少年少女、そして女性達の孤独や善悪に揺れ動く内面に踏み込み、決して目を逸らさない中島哲也監督の、ひとつの到達点であろう、大傑作である。(★★★★★)