虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「クヒオ大佐」

toshi202009-10-19

監督:吉田大八
原作:吉田和正
脚本:香川まさひと/吉田大八


 ゼロ年代ももう終わりの昨今である。ふとそんな時代にテレビをつけてみて、バラエティ番組などをぼんやりと見つめていると、お笑い芸人が数多現れ消えていく、という、お笑い消費社会である。お笑いブームといわれてからかなり年月が経つけれど、それでもなお流行り廃りのサイクルは衰えることなく、順調に循環している。
 あまりに消費サイクルが早いため、人気者になるチャンスが増えたと同時に、そこには代価も発生する。それは「個人」が「キャラ化」することを強いられることである。ネタ番組で受けたその「ネタ」の延長線上の「キャラ」が、芸人個人そのものとしてテレビを渡り歩かざるを得ないというジレンマは、芸人個人の存在意義を激しく揺さぶるものだ。


 さて。「クヒオ大佐」である。


 1991年。一人の男が結婚詐欺の容疑で逮捕される。その男は「ジョナサン・エリザベス・クヒオ大佐」と名乗り、被害総額は1億円にのぼるという。


 そんな実在の結婚詐欺師をもとに創作されたこの作品は、彼自身を元にしながらも描きたいものは「実録もの」というよりはクヒオ大佐という「キャラ」が生み出す、人間のどうしようもなさではなかろうか。


 この映画の監督である吉田大八がデビュー作に選んだのは本谷有希子の戯曲「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」の映画化であった。
 女優になりたくて上京しながら、借金ばかりを背負い込んで田舎に舞い戻ってきながら、それでも過去の自分と決別するために必死にあがく姉と、それに振り回される兄と妹。そこにある人間模様は、昔の自分を呪い、現状を呪い、すべてを「書き換えたい」と願う人間の必死な姿を描くことで、そこにおかしみと哀しみを描こうとしたことである。
 そして、この映画で「クヒオ大佐」という依り代を通じて描こうとしたことは、過去の自分のすべてを覆い隠す「何か」を得ようとした男の話である。


 北海道に生まれ、職業訓練学校を卒業して、上京してきた青年は、やがて人生の紆余曲折を経て「クヒオ大佐」になる道を選ぶに至るはずであるが、この映画はその背景については一切描かない。それは「ジョナサン・エリザベス・クヒオ」を名乗る男性はそれを一切望まないからである。かつてオトナたちに虐げられていた自分、そして上京してきてからの人生。そのすべてを、彼は人に知られることを恐怖している。
 そのために、彼は「ジョナサン・エリザベス・クヒオ大佐」という自身にとっての理想的な人格を生み出し、そしてその人間になりきろうとする。


 そんな男がなぜ、「結婚詐欺」という犯罪に走るようになったのか。それは、多分、ともに「だまされる」相手がほしかったんではないだろうか。


 この映画は3人の「クヒオ大佐」の被害者が登場する。弁当屋の女社長、自然科学館学芸員、銀座の売れっ子ホステス。騙されてることを知っててもなお騙されることを望むもの、騙されてなぜ自分を騙したのか問い詰めるもの、騙そうとしていることを知りながら騙し返そうとするもの。三者三様の女たち。クヒオは彼女たちを騙そうとするのか。
 それは、たぶん、自分を本気で騙すため。自分をクヒオであると認める相手が欲しかった。しかし、彼女たちと本当の恋愛をするわけにはいかない。なぜならば、彼の中で過去の情けなく、惨めな自分の人生はすべて「なかったこと」になっているからだ。そして自分がクヒオであると、自分自身をも騙すには彼が好きな女性とともに騙されたいと願っている。本来の自分を隠蔽しながら、それでも女性を求めずにはいられない。それがこの映画における「クヒオ大佐」なのだと思う。
 しかし、その願いは一人の男に「ニセ軍人」と喝破されたことで狂っていく。・・・いやまあ、はじめから狂ってるっちゃあ狂ってるんだが。だって、なんか、クヒオ大佐本人は、ハタから見ればコントのキャラみたいなんだもんなあ。


 彼には中身なんかない。器にはなにもない。軍人ではないし、知識も学歴もないし、英語はできないし、財産もない。大体、アメリカ人じゃなくて日本人だ。彼の中にあるのはキャラを演じ続けることだけ。たとえ一人の女性から「一緒に死んで」と言われても、ある男から軍人でないことを見抜かれて脅迫され続けたとしても、彼は「キャラ」を脱ぐことを辞めない。辞めるわけにはいかない。今日も明日も、「彼」はレプリカの軍服を羽織って、今日も自分のボロアパートを電話で何万フィート上空などと言い張り続ける。「クヒオ大佐」であり続けることしか、生きる意味はないからだ。

 湾岸戦争アメリカの戦費の90億円を肩代わりしたコンプレックスが、クヒオ大佐を通して女たちに夢を見せた、というこの映画のまとめにはいまひとつ共感しきれなかったものの、「キャラ」がテレビを跋扈する時代に、クヒオ大佐という「キャラ」を通して、そこにしがみつかざるを得ない男のおかしみと哀しみを描くことで、この映画はゼロ年代末を生きるワタクシの心を揺らしたのでした。(★★★★)