虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ザ・マジックアワー」

toshi202008-06-07

監督と脚本:三谷幸喜
撮影:山本英夫
美術:種田陽平


 「諦めるのは早い。私も待っている。次のマジックアワーを。 このままくたばってたまるか」




 「太陽は沈み切っていながら、まだ辺りが残光に照らされているほんのわずかな、しかし最も美しい時間帯」。それがこの映画のタイトル、「マジックアワー」の意味である。


 前作「THE 有頂天ホテル」において、種田陽平と組むことで、舞台劇の虚構性と映画との間に間に折り合いをつけた三谷幸喜が、再び種田陽平と組んで送る、最新作は、人生のマジックアワーについてのファンタジーである。


 今度の「守加護(すかご)町」という架空の街。まるで映画のセットのような佇まいの港町だ。
 だが、そこはギャングが街を仕切っている「暗黒街」であり、そこに住む青年はボスの愛人を寝取ってしまった。命を救われる引き替えに、でまかせに彼がボスに約束したのは伝説の殺し屋「デラ冨樫」を5日以内に連れてくること。だが、デラ冨樫に連絡する当てはない。彼は苦肉の策として、売れない俳優を騙して「デラ冨樫」を演じさせることを思いつく。
 彼が白羽の矢を立てたのは、村田大樹。代役やチョイ役に甘んじているが、一花咲かせることを夢見て俳優にしがみついている男だ。



 舞台劇では不可能な舞台劇という前作をさらに進化させ、その箱庭をついに「ひとつの街」にまで拡大、そこに織り込むのは映画と、映画を支える人々への敬意である。だから、本作での主人公は「だます側」の青年ではなく、「だまされる側」の売れない俳優・村田である。彼は舞台劇のオファーがあっても自分を「映画屋だ!」と言い切って映画俳優にこだわり、それゆえに映画スタッフたちにはすでに顔なじみとして愛されている。だが、演技の方は大げさすぎて、リアリティがないため、まったくいい役が来ない。
 そこへ見知らぬ「青年監督」が出した映画主演のオファー。自主映画と聞いて一旦は断るが、心が揺れたのは確か。スターや監督のきまぐれに翻弄される今の生活にも、不満がある。たまたま名画座で自身が俳優を目指すきっかけとなった作品が上映されており、その台詞「死ぬのは怖くない。怖いのは、己の誇りを失ったまま生き続けることだ。」という言葉に触発され、村田はそのオファーに人生を賭けることにする。


 オール・アドリブ。NGは許されない。リアリティが求められるシチュエーションが、彼の俳優としてのポテンシャルを覚醒させる。ホンモノのギャングとは知らずに、彼の一世一代の演技を連発。決して巧くはないが、その力強いなりきり演技で押し通すことで、結果マフィアたちの信頼を獲得する。


 本作は群像劇ではあるが、今回は前作ほどその色はなくなっていき、「映画の世界」に飲み込まれていく男のファンタジー、という色がより濃厚である。そういう意味では本作は、前作以上の実験を行っているとも言え、みずからの「箱庭」を「ファンタジー」と規定し、その虚構性を自明のものとして推し進めている。ラストのオチは、まさにその表れと言える。
 映画のマジックアワーを生むのは、俳優だけではない。監督だけでもない。様々なスタッフがいて、彼らのプロフェッショナルに支えられている。尊敬する「先輩」(柳沢愼一、絶品!)にそのことを教わった俳優は、最後の大ばくちを仕掛ける。「ラヂオの時間」以来の、「プロフェッショナル」への敬愛の話でもある。映画の記憶を揺り動かされて、自らの力を引き出された男は、映画を愛する仲間たちとともに、現実を鮮やかに越える「魔法の時間」を生み出していく。


 そしてそれは、まさに映画の「力」に支えられている。舞台劇では不可能な舞台劇から、さらに映画的な領域への飛翔。その明確な意志を示す、三谷幸喜監督の意欲作である。(★★★★)