虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「鉄コン筋クリート」

toshi202006-12-23

監督: マイケル・アリアス 原作:松本大洋


 この映画、技術的レベルはすごい。CGとセルアニメの融合という意味合いにおいては最先端と言っていいと思う。ラフなデッサンのキャラが、カッチリ出来上がった3Dの街で暴れ回る。それを手持ちカメラのように、カメラは自在に彼らを追う。しかも絵的にはそれほどの違和感がないほどのさりげなさで。監督のマイケル・アリアスという人はもともとコンピューター技術者として活躍してきただけあって、その辺の技術力を映画にすべりこませることに成功していて、これが唸るほど凄い。凄いのだけれども。


 ではこの映画が魂を揺るがす傑作かと言われると・・・難しいのだ。これが。技術レベルが高くとも、映画は必ずしも浮遊しない。それどころか逆に、その世界にがんじがらめになっていることに気づく。
 この映画の主役は誰か。それが問題になる。
 この映画で特に面白いのは、カッチリと良くできた、無国籍な街の造形だったりするのだが、それが徐々に映画を縛り始める。この映画が変なのは、登場人物とカメラの距離感だ。言ってみればこのカメラは誰にも寄り添わない。シロもクロもネズミもスズキも、ましてやヘビも、所詮は街の一部でしかなく、彼らはどんなに躍動しても、「たからまち」からどこへも行けやしない。人は街を変えていくが、同時に街の変化に人は動かされ、翻弄されていく。その姿を、マイケル・アリアスのカメラは、映し出す。


 松本大洋という作家は、時代の流れという「変化」についていける者とついていけない者の意識のズレを描くことで、時代に取り残される「哀感」をにじませることに長けた作家で、「ピンポン」も「鉄コン筋クリート」もそういう要素が多分にドラマツルギーに含まれているんだけれども、この映画におけるカメラとキャラクターの距離は、逆にその「哀感」を薄くしてしまう。
 この映画は非常によく出来ている。だが、それが松本大洋の魂を表現できるとは限らない。
 物語上、それをなぞってはいるんだけど、街があまりにも存在感がありすぎて、人が薄すぎるように感じる。おどろくほど、心揺さぶられない。まるで、ドラマとなるべき事象が、起こるべくして起こったような、そんな感じすら受ける。
 松本大洋は、背景を「省略」することで、人のドラマであることを浮かび上がらせてきたが、マイケル・アリアスのカメラはあるがままを映しだしてしまうがゆえに、ドラマが、肉体が薄まってしまうのである。


 この映画の主役は、だれあろう、「たからまち」という街そのものなのである。


 この映画はやがてクロの内面への話になっていくのだけれど、これがですね、天使と悪魔の葛藤にしか見えない。あまりにも人を平明に映しだしたがゆえに、もの凄く単純化されてしまったように見える。クロの「シロ」への執着の中にあったフクザツさも希薄になり、0か1か、という二分法で片付けられかねない選択の話になってしまったように見えた。カメラの距離は、時に、人の「温もり」すら冷ましてしまうことがある。
 この映画は非常に良くできた映画だ。演出も、技術も、一級品と言っていい。だが、見終わった後に、ネズミが感じたような、街の冷たさだけが身に染みてしまうのは、皮肉としかいいようがない。(★★★)