虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「王の男」

toshi202006-12-09

監督:イ・ジュンイク 脚本:チェ・ソクファン 原作: キム・テウン


 女遊びは芸のこやし、とよく言われる。方便ともとれるこの言葉だが、芸というのはその裏に強烈な情念なくしては成立しえないところがあるのは、確かだと思う。俳優には様々なカオスが潜んでいる。
 例えば中村獅堂という、若い世代では抜群な俳優がいる。彼は梨園育ちだけに、某女優と離縁したけれども(くだらねえよ)、なんか、悪い噂が聞こえてくるたびに、中村獅堂って芸に磨きが掛かってる感じがするのである。他にも、杉田かおるとか、なんかスキャンダルの中に身を置くと、芸に凄みが増す、という人はいる。物語というのは、魂の感情を自らに呼び込むものだ。人の心をゆさぶるのは、そこにいいしれぬ感情を抱えるだけの、カオスが常にあるのだと思う。


 たとえばこの映画の主人公。大道芸人女形芸人の2人である。この2人の芸人が王を皮肉る芸を見せて捕らえられ、王を笑わせてみせる、という片割れの一声で、仲間たちとともに王の前で芸を見せることになる。緊張のあまり、仲間が次々と「すべっていく」中で、2人はアドリブに次ぐアドリブでつなぎ、その芸が王に気に入られる。
 結局、その時のネタはいわゆる下ネタというやつで、かなりしょうもないのだけれども、やがて、王が女形芸人に心奪われ、大道芸人への思いを抱きながらも王との逢瀬を重ねる女形と、それをみて心配と嫉妬がないまぜとなった、複雑な愛憎というカオスを抱えていく大道芸人との、2人の裏に情念を称えた芸がやがて、王とその周辺を惑わせていく。
 

 元が韓国の戯曲だと聞いてなるほどな、と思った。舞台ではおそらく大傑作だったのだと思う。物語の構図としては芸人版「笑の大学」という趣で、あちらは脚本家と検閲官が対決する中で脚本の書く歓びや葛藤を描いていたが、こちらは演じる側の抱える「芸」の裏に潜む情念が、王宮を惑わせていく、という構図を取っている。
 芸の裏にはタニマチがいる、という現実を、冒頭の場面で提示しつつ、その現実から逃れようとした彼らが、結局王宮の中でも同じような現実を繰り返す。しかし、その現実に流されれば流されるほど、哀しいかな、2人は芸を際だたせていく。ドラマが悲壮になればなるほど際だつ、魂を揺るがす「芸」。
 映画の冒頭で演じた演題を、王の前で演じるクライマックス。あの頃とは変わってしまった2人。だが、彼らは何かを失った代わりに得たのは、芸に「魂」を込める情念。芸人の持つ哀しみが、王の孤独を際だたせ、時に惑わし、時に癒し、やがて魂を打つ。


 ラストの王の笑顔は、純粋に「芸」に魅せられた人のそれだ。それは映画に魅せられる我々と、重なるのではないだろうか。しかし、だからこそ哀しくも美しいラストシーン。元が舞台劇ということで、世界の広がりが感じられないのが惜しいけれども、哀しくも深き芸の道を描いた、素晴らしき寓話でありました。(★★★★☆)