虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「武士の一分」

toshi202006-12-04

監督:山田洋次 原作:藤沢周平
公式サイト:http://www.ichibun.jp/


 「たそがれ清兵衛」は俺の2002年ベストである。強度に研ぎ澄まされた傑作だったが、その監督の山田洋次は変なことに、時代劇を作れば作るほどに、演出に迷いが見られるように思う。
 生活の所作や、日々の営みを描くことに卓越してきた山田演出であるが、こと情念を描く段になると、やや演出が鈍る傾向を山田組常連俳優で固めた前作「隠し剣 鬼の爪」に見ていたが、本作ではいよいよ渦巻くカオスをシンプルに押し出すかたちで、物語をすすめていく。その演出の迷いを文字通り、露払いするべく主役に指名されたのが、山田時代劇では「異分子」とも言うべき木村拓哉であったことは、面白いことだと思う。


 武士も、サラリーマンも、実は変わりない。山田洋次が描いてきた藤沢周平の世界は、暴力の抑圧の中で生きるサラリーマン、である。そういう世界を描きながら、と同時に戦うべき時。誇りではなく、立てるべき何か。それはほんの一握り、手の届く範囲。そこに踏み入ったものを「払う」ことにのみに全てをかける。その守るべき矜恃が、武士の「一分」なのである。


 毒味役として禄を食んできたが、毒により失明した下級武士・新之丞が守るべき矜恃は、「妻」であった。


 新之丞が光をなくして絶望にのたうつのは、自らの無力を否応なく自覚するからだ。守るべきものを守れぬ絶望。彼が繰り返す「武士の一分」という言葉は、建前としての「誇り」なんぞではなくて、あるべきものを守る力のことだ。
 その新之丞の絶望を、木村拓哉の感性に託した。木村拓哉は決して器用でも卓越した俳優でもないが、スイッチが入ったかのように、人を引きつけるだけの輝きを帯びる瞬間がある。そこに魅力を感じた。特に、妻が自らの望まぬ不貞を告白した瞬間に、妻を「見えておらぬ」ながらに「見つめる」時の眼は、言いようのない迫力に満ちていて引き込まれた。


 命をかける、ことと、命を奪うこと。本作ではそれが必ずしも「イコール」ではないのは、この物語がけっして復讐の物語ではないからだ。差し違えても一太刀、と願いながら、しかし命を奪いたかったのではなく、「見えぬ自分」が「見えた頃の自分」と同じように、自分の守るべき妻を汚した者に加えるべき一太刀を与えることが、彼の中では重要なのだ。
 守るべき矜恃は人それぞれ。新之丞と相対した島田にも、譲れない「一分」があったことが、明らかになるところに、藤沢作品の、そして山田洋次監督の優しさがある。


 決して傑作ではないが、自らが描くべき世界を妥協せずに追い求めた愛すべき作品と思う。それこそが山田洋次監督の「一分」、なのだと思う。そんな監督が、俺は好きだ。(★★★☆)