虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「トゥモロー・ワールド」

toshi202006-11-18

原題:Children of Men
監督:アルフォンソ・キュアロン
公式サイト:http://www.tomorrow-world.com/



カムチャッカの若者がキリンの夢を見てるとき/メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている/ニューヨークの少女が微笑みながら寝返りをうつとき/ローマの少女は柱頭を染める朝陽にウインクする/この地球はいつも何処かで朝が始まっている/僕らは朝をリレーするのだ/経度から/経度へと/そうして/いわば/交替で/地球を守る』谷川俊太郎『朝のリレー』より)




 テレビでは、世界で最年少の少年の死が伝えられている。男がいる。コーヒーを買う。店を出る。道路わきで砂糖を入れる。店が爆発する。驚いて、コーヒーをぶちまける。


 この瞬間まで、男は世界の傍観者だった。彼のとなりに何者かがたたずんだのだ。その瞬間、彼は世界の混沌へと向かうことになる。終わり行く世界の容赦ない混沌の中へ。



 運命であったのだろうか。主人公である。元反政府活動家で、今はのんだくれの不良役人。かつて子供を育てていたが、彼を喪って以降、ぼんやりとした生を永らえてきた主人公。そんな人生はこの日のためにあったのだと、この映画を見たあなたは思うだろうか。そして主人公はそう思っただろうか。彼自身ではない私にはわからない。しかし、この「物語」の結末にたどり着くまで、彼には「何者か」が張り付いて、彼を導いていた。そんな気がするのである。
 世界に背を向け、薄く伸ばされたような絶望の中で、安穏とのらりくらりと日々を過ごしていただろう彼は拉致られて、この世界の中の「奇跡」の存在を目の当たりにするわけである。


 18年間。子供が生まれていない世界に生きる彼らの前に・・・妊娠した少女がいる。自壊していく人間社会の荒廃のもとなった、「渇水」。干上がりかけた人間社会に、大河をもたらす最初の一滴。しかし、その奇跡の存在は、混沌の世界の中ではあまりにも弱弱しく揺らめくかすかな光だった。


 この映画の鍵を握るのは、「ヒューマン・プロジェクト」という混沌のなかの徒花。しかも存在すら不明瞭だ。しかし、賭けるしかない。人間という存在を、次代へつなぐために。


 この映画は技術的な部分に関心が向きがちだが、アルフォンソ・キュアロンは描こうとしたものに忠実であろうとするがために、演出、技術、その他もろもろを総動員したに過ぎない。彼が描こうとしたのは、大昔から現在までの混沌のすべてを煮詰めたような容赦ない世界と、その中で、たったひとつの命を「リレー」する人々の行為だ。映画の中で繰り返される、生命の「リレー」という行為が、世界と彼らの間に強力な関係を結ぶ。
 「命を永らえるために」ではなく、「新たな命をリレー」するための冒険。その「生命」という名の「バトン」を見届けるために、彼は「物語」に選ばれたのだ。


 「世界」の容赦ない「暴力」に襲われて、次々と脱落していく走者たち。そのたびに、バトンは走者を変えていく。1時間49分という時間の中で、リレーのバトンを受けてしまった男に張り付きながら、物語に寄り添うカメラは、「朝」へと向かう「リレー」を捉え続ける。その過酷さをこの映画はまざまざと見せ付ける。
 そのリレーは、あまりにも不恰好にも関わらず、この世で最も尊い行為のように思えてくる。なぜか。たぶん、たぶん、それは、彼らがやっていることが、我々人類が、古い世代から新しい世代へと受け継がれる中で、連綿と行われてきたことだからではないだろうか。我々はそのバトンを、知らず知らずに受け取ってきたのである。



 冒頭の谷川俊太郎の詩は最後こう締めくくられる。


『眠る前のひととき 耳をすますと/どこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴っている/それは 貴方が送った朝を/誰かがしっかりと受け止めた証拠なのだ』


 主人公は目覚まし時計のベルを聞いただろうか。映画はそれを提示しない。その音を響かせるのは、観客の心の中、なのだろう。


 少なくとも俺の心の中では確実に響いている。傑作である。(★★★★★)