虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

誰も知らない?

 文月7さんが「オタク知識の強迫観念」について書いておられたので、なんかいろいろ考えてしまった。



「orzって、どういう意味ですか?」と聞いた時点で、その人は「インターネット上での教養のなさ」を露呈する。
現実では、知識人などと呼ばれている人であろうともだ。
その意味を知っている小学生から「この人、全然わかっちゃいないなぁ。」と思われてしまうのだ。
一体、何が、知識であり、教養であるのか。
学校で習うことが、インターネット上での、知識・教養になる例は少ない。
それは、コミニュケーション上という原則において、、学校で習うことは大して重要ではない、ということを表しているのだろうか。
いずれにしろ、インターネットには、インターネットの知識・教養が存在するのだ。
そこに文月7は、恐怖を抱いている。
脅迫観念といった方がいいのか。


 最近の俺自身は「知らない」という事を隠さないようになったんですね。ま、それは一概に言えば、「知る」ことの強迫観念は昔ほどはないということです。簡単に言うなれば、知っている、というパブリックイメージで自分を覆い隠したとしても、知識というものがきちんと身に付いたとは言えないと思うから。問題は知識と技術が伴うこと。


 俺のサイトを見に来ている方は、俺が映画の知識がある、と思っている方がいるのならそれは間違い。俺はこういうサイトをやっていながら驚くほど、知識も足りないし過去の映画に疎い。


 元々はゲームやテレビドラマやアニメを普通に見ていたテレビっこで、何の因果かセガのゲームのみを偏愛する偏屈ゲームヲタになり人生を踏み外した(オイ)。俺のゲーム人生は、セガハードの衰退・終焉と共にフェードアウトしていき、現在は驚くほどゲームをせず、代わりに映画を見るようになったのがここ6・7年、という感じ。
 映画はもともと好きだったのですが、特に映画館で鑑賞することにはこだわってませんでした。俺が映画館通いにはまるきっかけは、大学時代に構内の図書館にあったLD鑑賞コーナーで見た「ショーシャンクの空に」。俺はなんでこれを映画館で見なかったのか!?という激しい後悔が俺の強烈な「映画館偏重主義」を生みました。後は、セガBBSの映画板で書き込みしたりしてた事で、映画について思ったことを正直に書きたい、と思い、今に至る、という感じです。
 俺の映画好き人生はそんな浅い動機から始まっています。


 にも関わらず批評まがいの感想を書いているのは、ある種自己満足のマスターベーション的意味合いも大きいんですが、それでもなお書かずにおられんのはある種のサガ、というか「業」のようなものかもしれなません。


 ただ、ここ5・6年感想書き続けてきた間に、ある程度の現実と虚構の距離感みたいなものが掴めてきたあたりから、見えてくるものが違ってきた。それは単純に言えば、映画と対峙するときに必要な「素養」がようやく身に付いたのがここ2年ばかり、というところ。ある程度、自分の書くものに対して(全てとは言えないが)満足が出来るようになったのはごく最近です。


 人間、「知識」だけではやっていけない。そこに「素養」が加わることで、初めて「教養」が生きる。俺は一応普通に映画についての情報は集めるし、映画についての文章を読むが、それは「記憶」されるべき情報ではないと思っている。
 重要なのは「作品に触れる時」。その体験をかみ砕き、自分の中できちんと消化するために必要なのがある程度の「知識」と、「知識」や「体験」を処理する「素養」。それが結果、「教養」となるのではないでしょうか。


 そしてもう一つ重要なことは、「知らない」ということを「知る」ということ。
 これが驚くほど難しい。オタほど難しいですね。逆にこういうのは非ヲタの人の方がその辺の「技術」を体験的に取得出来ている場合があります。
 無知である人には「知」がない代わりに「智」があります。「恥」を知り「痴」を知れば、即ち「知」の「智」に通ず、なんてね。


 「orzって、どういう意味ですか?」と聞くのは、俺にとっては恥でもなんでもない。その程度のことで、人を無知呼ばわり出来る奴は単なる無恥なのですよ。


 重要なのは「orzを知った後」に何が出来るか、ではないでしょうか。そこにこそ、教養があると思うのです。