虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「フリーダム・ライターズ」

toshi202007-08-19

原題:Freedom Writers
監督・脚本:リチャード・ラグラヴェネーズ



 教育、という言葉には、誤解を生みやすい構造がある。教え、育てる。だから教育。生徒は、先生から教えられ育まれるという、のが真の教育であると。しかし、それはあまりに一面的な見方である。この言葉の裏には先生の側も「教えられ、育まれる」という側面がある。生徒をリスペクトすることで、先生はリスペクトされる。互いに敬意を払う関係。それが真の師弟関係である。
 教師という職業が特殊なのは、職業的な割り切りを超えていかなければ、真の「教育」にはたどり着けない、ということかもしれない。


 物語は1994年のアメリカ・ロサンゼルス・ロングビーチのとある高校から始まる。


 この映画の背景にはロス暴動の余波がある。
 もともとサウスセントラル地区は黒人居住者が多数を占めていたが、ヒスパニック系居住者が増加、さらに韓国系居住者が黒人が経営していた商店を買い取って商売を始め、黒人が一手に引き受けていた単純労働は、ラテン系居住者が取って代わるようになっていた。
 こうして、黒人の失業者が増加し、黒人社会の間に不満がくすぶり始め、人種間の緊張は高まっていく。それが爆発する引き鉄となったのが、一人のスピード違反した黒人ロドニー・キングを、白人警官20人で暴行した、ロドニー・キング事件の不当判決
 そしてロサンゼルス一帯で暴動が起き、その対象になったのが、韓国系の商店主や、ヒスパニック系の商店主だった。

 この事件以降、互いの人種間の軋轢は決定的なものになっていく。犯罪や人種間対立が当たり前のように行われる。そんな社会の余波をもろにかぶったのは、少年少女たちだった。少年少女の間に人種間の軋轢が持ち込まれると、彼らは人種同士で徒党を組み、決して他のグループと交わろうとしない。そして、ほんの些細な衝突で、彼らは敵意をむき出しにし、やがて銃やナイフが振るわれる事態となる。


 その緊張感は、そのまま高校の教室にも社会の縮図として持ち込まれていた。明日の命もわからない。そんな社会のまっただ中にいる彼らにとって、学校は「監獄」としか思えない。


 そしてもうひとつ。この映画で重要な背景は、公民権運動による高校の「人種統合」。これにより中流白人の生徒だけが通う進学校だったウィルソン高校は荒廃し、一部の成績優秀な生徒と落ちこぼれを集めたクラスに区分けされた。その「落ちこぼれクラス」のひとつが「203教室」。

 その見放された生徒達が集う「203教室」に新任国語教師としてやってきたのが、エリン・グルーウェルだった。



 彼女は、もともと弁護士を目指していたが、子供が犯罪を犯してから救うのでは遅い、学校レベルで「犯罪を犯さないように」教育するべきだ、という信念の元、わざわざ問題のある、高校に志願してきた変わり種だった。
 だが、当然のことだが、彼女は、長年培われてきた社会の現実に為す術がない。学校の教務主任(イメルダ・スタウントン=ハリポタの「ピンクを着た悪魔」)も見放しており、尊敬する父親ですらロス暴動の暴徒は知性とは無縁だと言い切る。彼女は孤立無援の中、それでも理解者である夫の励ましもあり、国語教師として受け入れられようと、懸命に努力しては裏切られ、の繰り返しを経験する。

 そんな理想と現実の間で挫折を繰り返す日常が続く教室で、その流れが変わる事件が起きる。そのきっかけは、ひとりの生徒が、黒人の生徒を揶揄するために書いた落書きだった。それを見た、エリンはそれを示して激高する。これはナチスが、ユダヤ人を貶めるためにしたことと同じだと。人種の偏見はホロコーストへの道に通じていると言う。その「人種の偏見」という言葉にヒスパニック系の少女が反駁する。「白人のあんたにアタシたちの何がわかんのさ!」と。そこから議論が始まる。ヒスパニック系のその少女は、父親が無実の罪で刑務所に入っている事実をぶちまけ、偏見だけで父親を逮捕した白人はすべて嫌いだ、という。困惑の表情で彼女を見るエレン。
 やがて、ひとりの青年が手を挙げる。落書きを書いた生徒。彼は言った。


 ホロコーストって・・・何?」


 彼女はこの日から彼女は、国語教師としての授業を止め、「寛容」についての授業を開始する。
 まずは、「ラインゲーム」という遊戯で、生徒達が抱える問題をあぶり出し、自分たちが抱える哀しみや恐怖は、他の生徒も抱えているのだと自覚させていく。銃口にさらされ、友人を多く失い、兄弟親族に刑務所送りになる。人種や程度の差こそあれ、同じような境遇や痛みを持っているのだと。。
 さらに、「彼らの「アンネの日記」を教材に遣おうと教務主任に図書館の本の貸し出しを申請するが、落書きされては予算の無駄と突っぱねられる。彼女は教師とアルバイトを両立しながら、自費で教室の生徒全員分の「アンネの日記」を購入し、配布する。


 そして。彼女は一人に一冊ずつノートを渡していく。エリンは生徒たちに言う。これを一日一回なにか書きなさい。成績には一切関係ない。内容は問わない。ただ、何か文を書くだけでいい。勝手に中を読むような真似はしない。ただ、どうしても先生に読んで欲しい場合は、棚に入れなさい、と。


 これは彼らが、生きていた証を残すために、言葉を刻み込むノートとなる。



 彼らは、グリーンウェルという、読み手への信頼から、自分たちの魂の物語を刻み込む。この映画に出てくるモノローグは、実際の「203教室」の生徒達が刻み込んだ言葉達だ。そのなんとも圧倒されるリアリティと、ほとばしる感情。それが、群像劇としても異様な説得力を持ってくる。
 彼らは自分の「物語」をノートに書き込むうちに、他人の書いた物語にも目を向けていく。配布された「アンネの日記」を彼らはむさぼるように熟読する。
 そして、ホロコーストについての博物館を訪れ、実際の生存者と対話する機会を用意された(これもエリンの自腹)彼らは、自分たちが知らなかった事実に驚き、そのことをノートに書き留める。知らなかったことを知る喜び。


 そして、彼らは知る。
 人にはそれぞれ物語がある。たとえはかない命の俺たちにも。死んだかつてのダチにも。アンネ・フランクにも。
 エリンもまた彼らのノートを読むことで、彼らの心の屈折を知っていく。


 たった一冊のノートが、やがて彼らの人生観、世界の見方を変えていく。その過程を、ただ「いい生徒になっていく話」ではなく、エリンの授業が、ひとりひとりの人生そのものに変化を与えていく、という構成はうまい。ヒスパニック系少女、エバの決断が授業で出会った一人の女性によって変化していく、くだりは素晴らしい。
 この映画は、教育映画、という意味では、まさに「教育かくあるべし」の形になっていく過程を、彼らの言葉で語らせることで、この映画は見る者を圧倒させる力強さを勝ち得ている。物語を語り、相手の物語を想像する力を。彼らは持って行く。


 彼らの心の変化を象徴するシーンは、かつてアンネ・フランクを匿ったヒースさん本人*1を、生徒全員の意思で募金活動をし、その資金で本当に呼び寄せる場面。もう、鳥肌が立った。
 ヒースさんから話を聞き、少年院にいた過去を持つ黒人の生徒マーカスが感動のあまり立ち上がり、「あんたは俺のヒーローだ」と言う。ヒースさんはこう返す。


「ちがうわ。青年。私はヒーローなんかじゃない。当たり前のことをしただけよ。自分が正しいと信じたことをね。


 あなたたちこそヒーローなのよ。」



 
 この映画は実話をもとにしてはいるが、このドラマは娯楽映画でもあるので、脚色は施されている。端折っている箇所も存在する。
 しかし、この映画の圧倒的なオリジナリティは、実在の人間達の、魂からの言葉に対して誠実に作られている点にある。*2教育が、物語が、人の運命すら変える。そんな希望を、この映画は圧倒的リアリティで描いている。


 「203教室」は彼らの家となる。社会に翻弄される「物語」たちが集うやどり木だ。彼らの日記はやがて一冊の本にまとまる。
 「The Freedom Writers Diary」。公民権運動のさなか、バスの人種隔離政策に抗議するために一つのバスに乗り込み、白人の暴力に対して非暴力によって立ち向かった「フリーダム・ライダーズ」の逸話からもじったものだ。


 決して良心的なだけではない。実話でありながら、物語を、そして物語が起こす奇蹟を、この映画は肯定してみせる。その力強さに圧倒され、何度もこころ揺さぶられた。彼らの魂をひとつの物語として見事にまとめあげた傑作。(★★★★★)

*1:演じるのはパット・キャロルという女優。ものすごくリアルな演技が、感動を引き立てる。

*2:この映画の脚本は、実際の生徒たちの声を反映させるため22回も書き直している。