虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「大日本人」

toshi202007-06-02

監督・主演:松本人志


 給料が手取りで20数万。妻子とは別居。友人らしい友人もおらず、時折やってくる猫と住んでいる。



 大佐藤大(だいさとう・まさる=松本人志)の境遇。それは電流浴びてでっかくなる特異体質を持ち、獣(じゅう)という巨大生物を成仏さして回る、ということを生業にしたおっさんである。働いているし、家もある。しかし、本人は慎ましやかに生活している。
 そのおっさんに取材がやってきとるらしい。


 という話。


 実を言うと結構、俺自身身につまされるところがある。大佐藤の自意識である。普通の人ほど実はインタビューされたい願望ってのがあるんじゃないのか、と俺は思うのだ。
 なんつーのかな。なんてことない人生をみんな送ってるようでいて、実は人にはこだわりがあって生きていたりする。大日本人6代目である大佐藤大は、腰の大事な部分にあるものを入れないことをこだわりにしている。行きつけの店で頼むのは必ず力うどん。折りたたみ傘が好きで、常に持ち歩いている。
 趣味でもいい。仕事でもいい。生活のこまごまとしたことでもいい。料理のコツ、家事のアイデアでもいい。聞いて欲しい、その細やかなこだわり。酒の肴にもなりゃしないけど、人はそれを誰かに話したい時がある。なるべくなら熱心に聞いてくれる人に話したい。それだったら自分に興味を持ってくれる人に話したい。素人にはそういう「インタビュー」されたい願望があるのではないか、と思うのだ。


 この映画は言ってみれば、でっかくなる「だけ」の素人のおっさんについて回る「情熱大陸」みたいな話である。一応ヒーローという肩書きだけど、生活自体は実に小市民な慎ましやかな男の、平凡な人生への。


 おっさんは自分のことを聞かれるままにぽつぽつと語る。その状況自体にはまんざらでもなさそうではある。だけど、おっさんには話の引き出しはない。場が持たないからインタビュアーはささいなことから聞いていくのだけれど、話慣れしていないから、まとまりがなく、面白く広がるはずもない。とりあえず遠景から撮ってみたり、そこらの住人に「おっさん」のことを聞いてみたりする。しかし、話は一向に弾けない。
 おっさんは時折かかってくる携帯電話で呼ばれて、現場最寄りの変電所に巨大化するためにでかけていく。出張もする。名古屋で獣が出ればそこへ行き、倒していく。


 ヒーローだけど「ただのおっさん」。そんな自分の「普通」さを大佐藤は半ば受け入れている。しかし、仕事にはこだわりがあるし、なるべくなら正当に評価されたい。自分の行動は民衆やマスコミから常に誤解を生み、マネージャーは視聴率のことしか気にせず、強い獣から逃げまどう姿が視聴率が良かったからと喜んでいたりする。大佐藤が感じる、自分の行いと周りの反応の落差は、松本人志が常日頃感じている、「普通」な俺を「悪人」にしたがるマスコミや、自分の表現へを正当に受け止めてくれない受け手へのもどかしさでもあるのだろう、と思う。
 仕事はちゃんとやっている。妻子だって愛している。だけど、愛している連れ合いはでかくなってパンツ一丁で暴れるおっさんである夫に愛想をつかしている。そのことに、大佐藤は気づいていない。
 彼がそれでもヒーローを続けているのは祖父で先々代である祖父への恩義からだった。俺がいなければ今は認知症にかかった祖父はどうなると、彼はインタビュアーに言う。インタビュアーは老人ホームがなんとかしてくれんじゃないすか、という。答えに窮した大佐藤は「気持ちの問題だよ」と返す。


 ヒーローなのに、面白くもおかしくもない男。そいつに密着取材がついている、ということ自体が、実はかなり異様だ。表面的にはつまらなく過ぎていくなかで、その状況が構造としての喜劇、と捉えるべきなのかもしれぬ。
 実はヒーローでなくたっていいのだ。大工でも、鳶でも、植木屋でも、瓦職人のおっさんでもいいのだろう。マスコミが密着する必要があるから「職業:ヒーロー」であるにすぎない。松ちゃんの中で、「インタビューに答える普通のおっさん」という存在こそが、実は主眼であり、松本人志個人を写す影でもあるのではないか、と俺は思ったりするのである。


 そしてあの賛否両論のラストは、寂しい「おっさん」が見た、今際の際の夢ではないか、と思ったりするのだ。
 ・・・・というわけで、評判が芳しくない映画ですが、俺は好きなんです。また見ます。(★★★)