虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「しゃべれども しゃべれども」

toshi202007-05-26

監督:平山秀幸 原作:佐藤多佳子 脚本:奥寺佐渡


 俺は。ええ、俺は映画感想、というものを書き続けて足かけ8年くらいになる。素人であるし、下手の横好きというやつだ。俺が映画を本格的にはまり始めたのが9年前くらいなのであるから、まあ、たいした知識もないまま、始めたものであるし今もただ好きなだけで書いている。
 ただ。ただ、ひとつだけ他の人と違う点があるとするならば。俺は映画を「値踏み」したいんじゃなくて、映画から受け取った何かを、どうにかして文章という形で書き残しておきたいと思うのである。★数をつけてはいるが、あれは俺自身の中の目安であって、決してその映画そのものの価値ではない。完成度100点満点法で20点であっても★3つのこともあるし、75点であったとしても★2つのこともある。映画というのは、完成度だけで割り切れないものである、と俺自身がずっと思っているからだ。



 なぜ。なぜそんなことを考える?その根源的な問いを、突然突きつけられた気がした。


 「しゃべれども しゃべれども」を見たのである。


 脚本の奥寺佐渡子は去年一大ムーブメントを巻き起こした「時をかける少女」の脚本を担当した方だ。俺は。詳細な理由は省くけれども、「時かけ」の成功の半分はこの人の脚本のおかげだとずっと思っていて、それは今も変わっていない。
 「時かけ」が本当の気持ちを伝えられない不器用な女子高生の話だったが、落語家の二ツ目の青年・今昔亭三ツ葉がこの映画の主人公でありながら、物語は彼が自己表現下手な女性との出会いから始まる、「コミュニケーション」が不器用な人々についての話である。


 この世に好かれたくない人の方が少ないように、誰しもが嫌われることなく、仲良く生きていきたいと思っている。伝えたいことがある。だれかとつながっていたいと切実に願う。しかし、世の中そう上手くは回らない。香里奈演じる外河五月は、常に仏頂面で引っ込み思案な女性。ある日話し方教室を途中で飛び出した時に自分を呼び止めた三ツ葉に、ぶっきらぼうながら話し方指南を願い出る。
 この即席話し方教室に、三ツ葉がひそかに憧れている女性との話の流れで加わった勝ち気な小学生の優と、解説の下手な元プロ野球選手・湯河原が加わり、三つ葉七転八倒の落語指南が始まる。


 と、同時に三ツ葉自身もまた行き詰まっている。新作落語には目もくれず、真面目に努力に努力を重ねて古典一本やりでやってきたが、伸び悩んでいて、自由にやっている兄弟弟子に先を越されて焦っているのだが、気持ちだけが空回っている。その上、あこがれの人から失恋と腐った弁当のダブルパンチを食らったことが幸いし、一門総出の公演に師匠の十八番「火焔太鼓」を演じられることになったが、演目を自分のものに出来ないまま期日は迫ってくる。


 彼自身の芸がいまだ完成されていないから、教えることも覚束ないのだが、それでも話し方教室の3人はやってくる。彼らは皆それぞれ、切実に現状から脱却しようとしている。ささやかな教室であっても、そこが生徒たち3人の寄る辺なのだ。そして、それは、三つ葉自身にとってもそれは変わらない。
 落語という狭い世界の中だけで閉じこもっていた意識が、話し方教室で教えることによって、彼の「芸」に徐々に覚醒を促していくことになる。


 一門公演が終わったあと、話し方教室も落語の発表会を行うことになる。枝雀の「饅頭こわい」に魅せられた優、しゃべりはうまくないが覚えるのは得意な五月が、それぞれ「対決」という形式でそれぞれの「饅頭こわい」を演じることになるのだが。
 仲良くやってこられなかったクラスメートに対して心から楽しんで演じる「饅頭こわい」を見せることで、彼らの心を掴んだ優のあとに、五月は「饅頭こわい」ではなく、別の演目を演じる。それは一門会で三つ葉が、生徒たちとの交流の中で覚醒してきた意識を酒でこじ開けられることによって、「たまたま」うまく演じられた「火焔太鼓」だった。彼女自身もまた、彼の落語に魅せられ、そして覚束ないながらも楽しみながらそれを演じきる。



 俺が感動したのは、この「五月の落語」である。名人芸である師匠の「火焔太鼓」に魅せられた三つ葉。その三つ葉七転八倒しながら偶然生み出された三つ葉自身の「火焔太鼓」に魅せられた五月の、そのなんともたどたどしい、それである。そのことに俺自身、驚く。
 人には伝えたいものがある。だからこそ、人は何かを表現するのだ。俺は、三つ葉の師匠のような「名人芸」の映画も好きだが、それと同じくらい五月や優がやったような「拙いながらも必死になにかを伝えようとする」もどかしい映画も同じくらい好きなのだと思う。


 ラスト、話し方教室を解散し、別れ別れになったあと、三つ葉を追いかけ、自分の中にある「伝えなければ後悔する思い」を伝えようとする。だが、彼女の口から出てきたのは、「ほおずき」の話だった。三つ葉と行ったほおずき市で、ほおずきを買わず、そば屋で喧嘩別れしたあと、彼女の実家のクリーニング店にそっと置かれたほおずき。そのことを言い始める。

 しかし。そのもどかしくも不器用な彼女の中から発せられた「ほおずき」の話の中に、彼女のなかの「ぐじゃぐじゃ」な言葉に出来ない思いが詰まっている。


 俺は、たとえ「30点の落語」であっても、その中に「伝えたいなにか」は存在するのならば、そのことに、たとえわずかでも気づいていきたい。この映画を見て、今更ながらそう思ったのである。(★★★★☆)