虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ハッピーフィート」

toshi202007-03-29

原題:Happy Feet
監督:ジョージ・ミラー
音楽:ジョン・パウエル


 (おことわり・・・この映画の感想は当初アップした感想と内容が違うものに、書き換えました。異例ではありますが、個人的な良心に則ってます。誠に手前勝手で失礼な話ではありますが、何卒ご了承ください)


 心の声とはなんだろう。ふとしたことで自分の中から聞こえてくるざわめきではないか、という思いがある。心の歌とはなんだろう。心のステップとは。心からわき上がるものを表現しなければ愛は勝ち得ない、というのは、なんとなく真理かもしれない。とも思う。
 愛だけではない。言葉を超えたつながりは、たしかに、あるかもしれない。この映画を見返して(2回目)を見てそんな思いに囚われた。


 この映画のストーリーのまとめ方はややもすると強引ではある。心の歌が歌えない障害を抱え、よちよちステップという「趣味」を心の底から愛するペンギン・マンブルが、外の世界に憧れる。というのは分かる。だが、若い層を奮い立たせるほどのムーヴメントを生み出した彼を、保守的な人々が追い出すくだり、というのが、どうも俺には腑に落ちない。俺ならば、仲間にした連中と戦うと思うが。しかし、青年は「おらが村のために」異界へと旅立つという。入り口としては、変じゃないか?と思う。彼の居場所はすでにあるじゃないか、と。
 本来ならば、勝手に行くべきである。異界へ勝手に旅立てばいいのだ。ゴラムのように先導するラブレイス、そして心の友たちとの果てしなき道行きの果てに、ひとり人間を追いかけていくマンブル。


 そこまでするのは何故か。異界の人間をたやすく信じられるのか。そこにあるべきは、使命感ではなく、「憧れ」であるべきではないか。


 とここまで、書いて、ではこの映画をまったく支持しない、かというと、そんなことはなく。面白いと思ったのは、その先。言葉が通じない、というマンブルと「異界人」とのコミュニケーションである。
 以前放映していた「英会話」のCMに、困っている外国人を助けたいけれども言葉が通じないから助けられない、みたいなCMがあるが、本来、異界の人間とのコミュニケーションは身振り手振りや、伝えたいという「思い」が先に立つべきで、言葉は後からついてくるものであるべきだ。
 幕末の土佐の漁師で、漂流先でアメリカの捕鯨船に助けられて、アメリカへ渡った、ジョン・万次郎に、なんとなくだぶらせながら見ていた。ジョン・万次郎は、当たり前だが当初は英語が全く出来ない。土佐弁しかしゃべれない。だが、彼は好奇心から異界の人間とも言うべき人々と、うち解けていき、彼の向上心と頭の回転の良さを船長に見込まれて、アメリカの学校で学ぶに至るのである。心の声とは「つながりたい」という思いから発せられるべきものだ。


 ペンギンたちの群舞から人間たちが反省し、みんなでペンギンたんたちを救おうぜ的な感じになるラストは、いくらなんでもあり得へんやろ*1、と思いつつも、マンブルが彼らの心を捉える過程、というのにはなるほどな、面白いものであるな、と思ったりしたのだった。(★★★)

*1:ペンギンたちの珍行動とみなすだけじゃないのか