虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「カポーティ」

toshi202006-11-08

原題:Capote
監督:ベネット・ミラー 脚本:ダン・ファターマン 製作・主演:フィリップ・シーモア・ホフマン



「あまりに恐ろしいものを見るとホッとするんだ。普通の生活を忘れられる」



 物語るということは、なんらかの意志がある。たとえば、この物語をああ描きたい。こう描きたい。出てくるキャラクターにあんなことしたいこんなことしたいでもいいし、世界をこんな風に変えちゃいたい、あんなふうに変えちゃいたい、戦争の醜さを描きたい、平和を描きたい。アクションの楽しさを伝えたい、人を殺す快楽を垣間見せたい。なんでもいい。
 メッセージを直接キャラクターに言わせてもいいし、遠回しに伝えてもいい。描くことで、なんらかの「意志」を見せることが、作り手を作り手たらしめる。しかし。


 ただ事実を羅列する。立つ。会話をする。書く。寝る。・・・などなどの、一つ一つの登場人物の所作。ただそれだけを映し出す。この映画は恐ろしいことに、それだけで映画を成立させて見せた。
 一見退屈だ。演出にも「物語る」意志というもの、語り手の自意識というもの、その他もろもろが感じられない。物語の魅力で、絵の力で、観客を引き込もうという意識を、この映画の演出は恐ろしいことに、まことに恐ろしいことに、一切を捨てている。絵で見せる、というよりは、「提示」という感じに近い。モノローグすら使わないのだ。
 しかも、主役の作家・カポーティはなかなか本意を言わない。彼の本心はどこにあるのか。それをこの映画は一切の説明をしない。
 圧倒的な叙事。それがこの映画の例えにはふさわしい気がする。


 では、この映画はなんなのか。ノンフィクション・ノベルのはしりとなった、傑作と名高い「冷血」を執筆していく中で、カポーティは何を見、何を知ったのか。それを描く。だが、その際、語り手の意識を作り手はあえて捨てた。
 物語るという、作家としての当然の「権利」を、作り手はなんとフィリップ・シーモア・ホフマンその人に託した。いや、あえて、委ねた、の方が正しい。演出で、脚本ですべてを語らないかわりにシチュエーションのお膳立てをした上で、フィリップ・シーモア・ホフマンは一挙手一投足で、作り手の意図する、「カポーティ」その人を雄弁に体現しはじめる。そして、ゆるやかに悲劇へと足を踏み入れていく、その姿。それをカメラは、ただただ、映しつづける。


 すごい。すごすぎる。フィリップ・シーモア・ホフマンも、そして、彼に全てを委ねた作り手も。
 しかも新人監督がやるのか。役者にすべてを委ねる、などという冒険を。そんなことがあり得るのか。


 一見大きなうねりもない、この映画。しかし、しかし。凝視することで浮かび上がる、取材対象に限りない愛を持ちながら、作家としての精神的名声のために友を裏切った男の、一生消えない罪の色が。 
 伝記と言うにはあまりにも禍々しい。だがそれを直接には描かない。見たくない者にはあえて見せないという作劇。だが、覗く意志のあるものだけがかいま見れる、ひとりの作家の抱えた闇が、この映画には、ある。傑作。(★★★★★)