虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「父親たちの星条旗」

toshi202006-11-05

原題:Flags of Our Fathers
監督:クリント・イーストウッド 脚本:ポール・ハギス/ウィリアム・ブロイレス・Jr.


 すごいものを見た。という記憶はある。


 和む兵士たちのひとときの安らぎと、やがて来る恐るべき戦場、そして虚飾の中にある3人の偶像たちを待つ人生が、何の違和感もなく並ぶ。まるで当たり前のように。あるがままの映像というもの。そこで描かれる恐るべき残虐。殺戮。死に様。そして、生き様。あまりにも完成された映像というもの。ここにきて、いよいよイーストウッドの映像術は、はるかな高みへと極まっていて陶然と見る。
 一点の虚飾もなく、何も足さない何も引かない完成された至高の演出。オールモルト山崎のキャッチコピーか。すごい。なんだこれ。これほどの大規模な作品でも、これほど変わらずに、その有り様、ただそれだけを映し出す。これが、これがイーストウッドか。あまりの神々しい美しさに、ただただ息を呑む。


 しかし。この映画の欠点もまた、その恐るべき「完成度」のなかにある。物語の中では語り手、そして偶像たちの記憶。それこそが、この映画で描かれるべき「戦場」であったならば、それまでも、透徹に、ありのままに、あるがままに映しだしたがゆえに、物語としての豊かさを消し去ってしまう。
 兵士が見た物は、出来うる限り正確に記録されるべきだ。そのような敬意がイーストウッドにあるのはわかる。ただ、あまりにも等しく距離を置き、冷然と見せてしまったがゆえに、人の記憶の表現としては「未完成」なものとなってしまった。


 人は見たい物しかみない。覚えるべきものしか覚えない。人間は何もかもを記憶しているわけではなく、自らの人生に重要なこと、覚えるべき事を繰り返し反復して記憶の強度を増すことで、「覚えている」と認識する。人は神ではなく所詮人だ。
 一枚の「写真」という、光学的「記録」の中に潜んだ「真実」は、「記録」の中にあるのではなく、頼りなく未完成な「記憶」の中にある。「記録」映像としての神々しいまでの完成度は、しかしながら「人の記憶」たり得ない。不完全であるがゆえに、人は記憶の中で生きていける。


 浄も不浄も関係なく、過剰な情緒も持ち得ない、あるがままを受け入れるイーストウッドの目を、兵士たちは持っていただろうか。それは、たぶん、持ち得ないものではなかったか。そう思うのである。(★★★)