虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「グエムル/漢江の怪物」

見上げてごらん。

監督:ポン・ジュノ
公式サイト:http://www.guemuru.com/


 怪物とは理不尽なものである。
 どこで生まれたのか。そして何故人を襲うのか。理屈はない。怪物はただ怪物だから怪物なのだ。そこに理由などいらない。最初の30分。この映画が観客に見せつけるそれは、まさに理不尽である。


 簡単な仕事もろくにできない、頭の弱い父親。頭は悪くないが、民主化デモに参加していたために就職できずに酒に溺れる叔父。アーチェリーの世界的な選手である叔母。そんな3人を紆余曲折ありながらも、男手ひとつで育て上げた祖父。
 そんな家族を持つ中学生の少女が出会った「理不尽」。それは、あまりにも突然彼女の前に姿を現したのだった。彼女は見知らぬ場所に連れ去られた。人智の及ばぬ理由と、人並み外れた圧倒的な力によって。


 一方、家族たちはというと、「理不尽な存在」に振り回される「政府」の「理不尽」に振り回されていた。娘が死んだことにされた合同葬儀会場で泣き崩れていた家族たち。だが「米国主導」で行われる情報操作によって「ウィルス」の存在が知れるや、政府やマスコミはパニックとなった。彼らはウィルスに感染した可能性を問われて、病院に監禁状態となる。そんなときに「娘の携帯」に電話が掛かってきた。そこから漏れてきた声は「娘」の声であった。


 「娘」は生きている・・・・!


 警官に説明しても父親の言動に頼りないところもあり、なかなか理解してもらえない。娘は死んでいる。生きているわけはない、と投げられてしまうのである。しかし時間は刻一刻と過ぎていく。その間に娘は死んでしまうかも知れない!彼らは、娘を捜すために病院を脱出した。漢江にひそむ怪物の巣へ。囚われた娘のいる場所へ・・・!



 この映画の怪物によって、もうひとつの「理不尽」がわき起こる。それは「人」である。



 そもそも娘・ヒョンソにとってもっとも理不尽だったのは父がなにをやってもダメなグズ父であることだった。しかし、そんな男の娘を思う意志は家族を動かす。怪物を倒し、娘を救う。無謀である。だがその無謀に明確な意志を示した父の元に家族は、集った。しかし、娘の救出を焦るあまりの行動は彼らの状況を悪化させていく。
 父親の後天的な「弱さ」がそのまんま周りとの信頼の齟齬を生んでいく。彼らはついには指名手配されてしまう。怪物に近い場所へ向かう彼らはついに、怪物と、最初の邂逅を果たす!だが怪物の圧倒的な力と、娘を救いたい焦りで浮き足だった彼らは、あまりにも凡庸な理由で犠牲者を出してしまうハメになった・・・・。


 素人家族が怪物と対峙しせざるを得ない理不尽をこの映画は、きちんと理に適った方法で描き出していく。
 都市の人智の及ばぬ「スキ間」に生息し、軍隊や警察に見つからずに非道を繰り返す人食いの怪物。その生態をきちっと観客に理解できる形で提示しつつ、その「巣」にいる娘の存在を信じられるのは「家族」だけという状況に持って行くことで、対決を不可避のものとしていく手際は、さすがというしかない。


 あと。
 コメディの部分がシリアスな物語に合致しないとかいう、寝言のようなことを言う人がいるが、アホか、と思う。人間とは必死になればなるほど、滑稽になっていくものなんだよ。ポン・ジュノドラマツルギーは「ほえる犬は噛まない」から一向にブレがない。それは、笑いの部分によって差し迫った状況にリアリティを与えていくのだ。
 あの時。ああしなければ。あの時。ああしていれば。人は肝心なところで、つまらないところで転ぶことがある。その時人は恐ろしく滑稽な姿に違いない。それが真実なのだ。


 失敗もすればミスもする。なにか特別な人間でもない一般人が必死に生きていればそういうこともある。この映画は格好良く娘を救う映画なんかじゃない。かっこ悪く泥臭く、怪物にぶつかっていく家族の姿を描くのだ。それはヒョンソですらそうなのだ。追い込まれても追い込まれても、ヒョンソの目は死なない。むしろ輝きが鋭さを増していく。最後まで生き抜く希望を胸に、理不尽な状況と戦い続ける。


 苦い勝利を得るまでを逃げずに、真っ向勝負で描くポン・ジュノこそ格好いい。俺はそう思う。ヒーローなどいない世界。怪物だけがいる理不尽な世界。この映画にいるのは、どんな「人間」でも「戦う」心を忘れてはいけない、ということを示す。追い込まれたら飯を食え。そして動け。
 そして目をそらさないこと。そのことが、クライマックスを躍動させる。どのような結果になっても、逃げない人々の魂の映画である。傑作。大傑作。(★★★★★)×2←★が足らない!!