虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「太陽」

天子の休息

監督:アレクサンドル・ソクーロフ




「何か不都合がありましたか。」


「概ね不便で、よくないよ。」



 「主人公」はイッセー尾形演じる「男」である。


 たどたどしくしゃべるその人。彼は国民から天照大神の子孫としてあがめられ、現人神と言われていた。彼もこれまでそうあるように、教育されて生きてきた。感情は表にださず、自らの意志すら遠回しに話す。それを聞く側が歩み寄って受け取って「御意志」と受け取る。そういう特殊な状況を自らにおいて生きてきた男。


 自分は「神」。そう扱われていることを彼は知っている。


 しかし、男には生物学者という顔があった。その彼の「見識」が、自らを立ち振り返させる。「我は人間なのではないか。」だが応えるものはいない。人間であるならば、人間でありたい。しかし、彼の背負ってきたものは千年を超える歴史。彼が対峙し、抜け出そうとしたのはその「歴史」そのものだった。



 天皇


 この言葉。


 それについて語るとき。そこには政治的な色がついて回る。好きでも嫌いでも認めても認めないでも敬っても敬わないでもさげすんでもさげすまなくても、そこには「政治的」な色がついて回る。
 我々日本人が逃れ得ない呪縛である。


 生まれながらにして神と呼ばれた。そんな「人」がこの日本にいた。そのことを日本人の多くは老いも若きも認識して育つ。


 その「人」を一人のロシア人監督が興味を持ち、純粋な好意と敬愛の念を込めて一本の映画を撮り上げたという事実は、ひどく衝撃的である。なんせ、我々のだれも、彼の人として深く興味を抱くことを、ためらわれたからである。


 イッセー尾形の演技は非常に巧みですばらしく、天皇の悲しみやおかしみを、重くなりがちな題材に一定の軽みを与えながら、彼の天才のすべてをもって演じきっている。ネタがネタじゃなかったら、彼のモノマネの代表的レパートリーになったであろうほどのクオリティ。だが、そんなイッセー尾形を使って、ソクーロフがしたことは、史実をなぞるのではなく、シチュエーションはそのままに、「虚構」の帝として画面上に存在させてみせる。「神」の部分を引きはがす苦悩と哀しみを引き出してみせる。
 ソクーロフは、虚構の帝「ヒロヒト」を生み出すことで、彼自身の苦悩に寄り添おうと試みたのだ。


 ここにソクーロフの賢明がある。


 彼は日本人としての「神」であり「象徴」でありつづけた。彼の素顔を知ることなど我々には出来はしない。ただ、彼の魂を認識できるとしたら、それはフィクションの中に彼の真実の苦悩を掘り起こすしかないのである。ソクーロフは「人間・ヒロヒト」が神をやめるまでに彼が抱える膨大なカオス、コンプレックス、人としてのおかしみを、イッセー尾形依代に体現させてみせる。
 「まだ見ぬ」民と彼らを思う自分。その両方を救うために彼は、「人間」への階段を一歩一歩、自らの意志で降りていく。千年の呪縛に歪んだ自分を、「自由」にするために。自らと家族の魂以外確固たるものを感じられない、バーチャルなマトリックスから解放されるために。
 映画の終わり。彼は皇后の胸に頭をうずめながら、しばし戦いきって疲弊した自分を癒す。そして皇后に「私たちは自由だ。」とつぶやく。その後の彼が、本当に自由だったのか。それについては天皇ではない我が身には知るよしもないことだが。



 昭和20年。日本は雲間から太陽が顔を出す。ソクーロフはそこにいたるまでに天皇が抱えたであろう苦しみを、その孤独な魂を、人としてやさしく抱きとめたのだ。それは、日本人のだれも出来なかったことだ*1。そのことが、たまらなく素晴らしい奇跡に思える。日本人必見。傑作。(★★★★★)

*1:そのころ日本人は何をしていたかは「日本のいちばん長い日」参照。