虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「力道山」

toshi202006-03-08

監督・脚本:ソン・へソン 美術:稲垣尚夫


  「あれは誰だ!?誰だだ!」(「炎の転校生」主題歌より)


 去年公開された映画「ALWAYS/三丁目の夕日」で初めて町にテレビがくる、というくだりがある。テレビを見に来た町中の人間が最初に目にした映像。それが力道山の試合である。力道山=昭和の象徴。彼は昭和30年代、という時代の風景の一つであり、記号だった。だが、日本人はその「記号」には反応するが、「その人物像」にまで踏み込もうとしてこなかった。


 力道山とは何者か。


 日本映画はそれに向き合ってこなかった。いや、向き合えなかった。ひとえに彼の出自に、スキャンダラスな色があったからだ。彼の映画を作るということは、それを作ることによって生まれる「政治性」をも引き受けなければならないリスクが存在する。そしてその秘密は、力道山本人が墓場まで持っていってしまったものでもあった。
 テレビというジャンルに颯爽と現れ、日本プロレス文化の基礎を築き上げた男。その男の人生を、なぜ韓国の監督が作るのか。それは日本で製作するほどには大きな「政治性」を孕まない題材だからに他ならない。その男の波乱に満ちた生涯を追った、日韓合作映画である。



 まだ朝鮮半島が分断されていなかった戦前。力士になるために日本へと渡ってきた朝鮮人がいた。朝鮮で生まれた彼が、閉鎖的かつ競争社会の相撲の世界に入るということは、ある種必然的にはじき出される対象となる。先輩力士にいじめを受けながらも、彼はパトロンを引き入れるしたたかさとともに、その世界で10年戦い続けた。そこで彼は、生涯背負い続ける名前を手にする。その男の名「力道山」。彼の夢は、誰にも負けない横綱になることだった。
 だが、「世界」はその夢を許さなかった。問題になったのは(やはりというかなんというか)彼の出自であった。一向に昇進できぬことにいらだち、暴行事件を引き起こした彼は、結局関脇としてその相撲人生を終える。

 夢が潰えて希望を無くし、酒に溺れる彼に転機が訪れたのはハロルド坂田(武藤敬司)との出会いだった。プロレスというワールドワイドなスポーツの存在を知った彼の目は一気に世界へと広がっていく。自らの出自を気にすることのない世界へ。彼はアメリカへと渡り、数年の後プロレスラー「力道山」として帰還する。


 脚本が正攻法かつやや乱暴な構成で、プロレスの考証もおかしい、事実誤認なども結構ある*1・・・等の問題点はある。だが、そこにはあえて目をつぶるべきであろう。この映画が踏み込もうとしたのは、力道山という怪物の内面である。
 この映画にはプロレスリング・ノア*2が協力しており、現役プロレスラーが多数出演しているのだが 、力道山を演じるソル・ギョングの肉体は、それらと並んでもなんの違和感もない、というすさまじさ。
 ソル・ギョングによって圧倒的な肉体の中に繊細な魂を持つ力道山を体現しつつ、異国の地で居場所を見つけた男の孤独な闘いを描いていく。彼には帰る場所がなかった。戦後、朝鮮は戦場と化し、やがて大国の思惑によって引かれた線によって分断する。彼はただ、勝つしかなかったのだ。世界言語プロレスによって。


 彼は意識の上で、朝鮮とも、日本とも、一線を引く。「俺は朝鮮も日本も関係ない。俺は世界人だ。」在日朝鮮人の友人に彼はそう言い放つ。そこに、笑顔の彼の中に秘めたカオスがある。パトロンも、妻も、国も、彼に居場所を作らなかった。自分しか信じられなかった男は、リングだけが存在理由となった。


 プロレス地獄とも言えるその生き様。勝ち続けた男の先にあるもの、その一端を映画は示す。この映画は、昭和・日本という、韓国人から見たファンタジー世界を生きる怪物の物語だが、しかし、力道山本人が抱えた「圧倒的な孤独」をもこの映画は触れたような気がした。事実を追うだけでは触れられない、虚構が持つ力だと思う。(★★★)

*1:女性関係はかなり複雑なのだが、割愛されとる。生前にリキ・パレスは完成してた。つかルー・テーズ戦やんねーのかYO、等々

*2:力道山の息子、百田光男が在籍してる関係もあろう。