虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「博士の愛した数式」

toshi202006-01-22

監督・脚本:小泉堯史
公式サイト:http://www.hakase-movie.com/


「永遠の真実は目には見えないのだよ。」


 映画と数学は似ている。


 この映画を見ていてそう思った。正しいかどうかは、知らない。直感である。だが、それはおそらく正しい。そう、人が信じるべきは、「正しい」正解よりも経験による直感。そこから真実への鍵は導きだされるのである。


 この映画の語り部は「√」と呼ばれる青年。彼は今、海辺の中学校で教鞭をとっている。そして、彼は自分が「√」と呼ばれるきっかけはなんだったのか、生徒に話して聞かせる。


 彼を「√」と名付けたのは「博士」と呼ばれる男性だった。「博士」と出会うきっかけは、シングルマザーであった彼の母親が「博士」の家政婦として紹介所から斡旋されたことだった。家政婦を依頼したのは彼の義姉で、彼女は家政婦として来た母親に、「博士」氏は事故がきっかけで記憶は1時間と20分、80分しか保たないことを告げられる。義姉は「博士」の兄である夫が亡くなった後、工場をたたんで別荘を建て、家賃収入で生活し、「博士」を面倒みてきたと言う。
 「博士」は確かに記憶が80分しか保たず、一番新しい記憶は1975年の時代で止まっている。だが、そんな彼が人として存在しつづけているのは、美しい数式を愛する「数学者」としてだった。家事が得意で誠実だが無学な母親は数学をまるで知らなかったが、博士の「数学」にまつわる話に魅せられ、やがて息子の存在を知った博士が子供の安否を慮ったことで、博士と親子は交流を持つようになる。


 さて。
 原作には成長した「√」は出ないそうだが、そんな彼を吉岡秀隆が演じていて、その語り口はすっと心にしみる。脚本を書いた小泉監督が本来持つ誠実な人格が、そのまま滲み出たようなリアリティーがある。つまり、この映画は、小川洋子さんの原作を小泉監督が「成長した√」として語り直しているのである。
 小泉堯史という監督は、黒澤監督の助監督出身の人だが、その縁で黒澤監督の死語、彼の遺稿である「雨あがる」を演出した。だが、そこにあった世界は、あまりにも端正に過ぎる演出による、なんとも黒澤的なる荒々しいエネルギーからはほど遠い、美しいが枯淡のように渋みがかった映画だった。小泉監督は日本人がかつて保っていた「清明」なる心を信じつづけているような監督なのではないか。だからこそ、映画は常におだやかである。

 だが、現代でそのような世界はあるのだろうか。それはおそらく幻想だと思う。しかし、映画は小泉監督の胸にある「真実」の魂に「かたち」を見いだした。それは√-1である。


 √-1は-1の平方根で、虚数と呼ばれる。-1を掛け合わせても、答えは√1と同じ1である。ゆえに数の上では「存在しない」。だが「現にここにある」。どういうことか。


 虚構の中に真実を見出そうとする事は√-1を信じることに似ている。物質的に存在しなくとも、存在しうるものが、この世にはあるのだ。√-1もまた数であり、人の心の中に存在するのだと、映画は説く。それは筆者が、フィクションという物語の中に見出そうとしているものと、実はそう遠くない境地なのである。
 数というのは、無限に広がり、無数に存在する。そのあり方も、存在の仕方も意味も、まるで違う。だからこそ、それらを深く知ることで、この世界の真理に近づく一歩となる。その真理が、社会的にどう役に立つ、というわけでもなく、まったく役に立たないというわけでもない。だが、「真理」そのものは「絶対」な美しさを保つ。そしてその美しさは「容易に説明がつかない」。


 居ずまいを正したくなるような静謐な空気と、^数学者」で記憶が保たない「変人」である「博士」が醸し出す、押しつけがましくない「知性」と適度な「ユーモア」が豊かなコントラストを描き、この上なく、美しくそして、面白い映画となった
 ドラマと数学。およそ相容れぬ要素のように見える。だが、ときに「物語」は不思議な仕業を魅せる。これもまた、数学が時折見せる奇蹟と似ている。決して交わらないように見える。だが、小泉監督や小川洋子女史やその他関わったすべての思いが、この一見あり得ないような要素に深い結合をもたらす。これもまた映画の奇跡、ってやつじゃないのかな。


 哀しい「過去」を秘めた博士が、かつて愛した数式があるように、私にとっても愛しく美しい映画になった。その美しさがどのようなものかを語る野暮は、あえてすまい。無論、この映画は小泉監督の最高傑作と思う。(★★★★)