虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「キング・コング」

toshi202005-12-18

原題:King Kong
監督:ピーター・ジャクソン


 困った。


 凄かったのである。演出も最高。まさにデジタルが生み出した魂の映像。そんな映像が3時間ぶっとおし。まさに映像の満漢全席。なによりも、題材への愛がある。そして監督はピーター・ジャクソン
 誰が見ても、傑作と呼ぶべきすべての要素が揃っている。


 だが、感動しなかったのである。凄いのに感動しない。そんなことがあるのだろうか。俺の感性がおかしいのかもしれない、と何度も首をひねった。だって、みんな絶賛してんじゃん。なに?俺がコングエリートじゃないから?確かにオリジナル、よく知らないよ。だけど、そういうエリートじゃない人までが、傑作言うてるのだ。
 だから、困っている。たしかに凄い。凄いのだ。そして同時に、俺は、この映画、死に体だと思った。


 過剰な愛が映画を殺すこともある*1。俺はそれを見たのかもしれない。


 「キングコング」を自分の作品として語り直すときにまず、ピーター・ジャクソンがしたこと。それは「行間」を埋めることだ。言ってみれば、大猿の悲劇を、「猿」と「人」の交歓の物語として語り直すことではないか。と思った。オリジナルは、コングの片思いとその破綻、という悲劇の物語だったが、PJ版はアン・ダロウがコングに惹かれるが、やがて引き裂かれる、という愛の物語として変換されている。
 そして、コングのコすら見えない前半部は、人間ドラマに費やされる。
 ヒロイン・アン・ダーロウ(ナオミ・ワッツ)は売れないボードビリダー。喜劇で人を喜ばせるのを 良しとしている女性。類い希なる美貌をもちながらも不遇な日々を送る彼女。だが、ニューヨークでの成功の夢も捨てられずにいる。
 一方、映画プロデューサーのカール・デナム(ジャック・ブラック)は行き詰まっていた。映画会社は彼の企画に理解を示さず、切り捨てようとし、彼の作品を売り払って切り捨てようとさえした。それを知ったデナムはその企画を成就させようとする。彼の撮ろうとした映画。それは海図にはない未知の島・髑髏島。彼は、フィルムを抱えるだけ抱えると映画会社を飛び出した。そして、彼はアンと出会う。降板した女優の代わりにぴったりだと思った彼はアンを口説き落とし、船に乗せると出発した。向かう場所はスタッフ・キャストはおろか、船員たちにまで秘密にしたまま。
 彼らは紆余曲折を経ながらも、やがて、交流を深めていくが、やがてデナムの目論見は船員たちの知るところとなり、船長はデナムが彼を警察に引き渡そうとするが、船は船長たちの目論見とは別に、髑髏島へと向かっていたのだった。


 この前半部の描写はまあいいのだ。それぞれがそれぞれのドラマを抱えて、未知の世界へと足を踏み入れる。そこから髑髏島へと流れ着くまでがいささか冗長であるのだが、私にとってその程度の傷は別にいいのである。しかし、人としてのドラマとして始まってしまったことが、この映画をある破綻へと導いている。
 髑髏島へと着いて以降、PJはいきなり、それまでの人としての物語を放棄するのだ。


 クリーチャーと化した土人(おいおい)が出てくるのを皮切りに、出るわ出るわのクリーチャー魂全開。土人にさらわれ、いけにえにされたアン・ダロウを助けるために、アンに恋心を抱く脚本家の青年を先頭に、未開の島を行く人間たちの目の前に現れるのは恐竜!巨大な虫!あと何なのかよくわかんない怪物!危機また危機!そして次々死んでいく人間たち。
 土人に串で突かれ、恐竜に押しつぶされ、食われ、コングに投げ飛ばされ、橋から転げ落とされて死んでいく。うははは人がゴミのようだ、と普段の俺ならムスカさんばりに、サディスティックに笑うところだが、これが笑えない。彼らの悲劇を後目に、肝心のアン・ダロウはゴングたんのお気に入りとして、ロマンスしちゃってるのである。


 ここここここ・・・・・このおんなああああああああああ!何しにきたおまえ!


 正直、このロマンスが俺の癇に障ったと言っていい。スタッフは全滅、フィルムは失われ、デナムの目的は果たされず、自業自得とはいえ無念が残った彼の、逆転への賭としてのコングを捕らえようとする行動は理解できる。そして、ダロウを救うために巨大コングに向かって行った脚本家の青年の勇気も。だが、この女はコングに振り回されてる間に頭でも打ったか、すっかり、コングの虜。


 バカじゃねーの?この女。自分を愛でて、自分への「所有欲」のために戦ってくれたから?冗談じゃねーよ。トトロじゃねーんだぞ。こいつだって、立派な「怪物」じゃねーか。


 脚本家の青年が必死にコングの手から彼女を必死に救って、船まで連れ戻したにも関わらず、彼女はすっかりコングを見捨てられず、「彼」を捕らえようとするデナムに「殺さないで」「手を出さないで」と泣きわめく。ここで正直「かふん」となった。いい加減にしろよバカ女、って感じである。こいつとおまえのせいで、大勢死んでるんじゃ。つか今、お前の目の前でがんがんコングが殺しまくってるし。なぜ、その状況すら汲めない?


 その後、デナムたちに捕らえられたコングが見せ物にされ、やがて、アン・ダロウを探してニューヨークを暴れ回るパートへと移るのだが、このパートも彼女が、彼のストッパーになれたはずなのに、「見せ物にした彼を見るのはいやっ!」という「無責任さ」から、大惨事に。
 すまん。アンさんさあ、あんた絶対思考回路変。お前が、きちんと「仕事」してりゃこんなことにならなかったんじゃねーか。


 魂の映像の力で押しまくるから何とか見られるんだけど、内心、ナオミにキレまくってる俺がいましたよ。ニューヨークのパートでも「てめえ、人々が逃げまどってるときに、のんびりコングと戯れやがって死ね!」と思った。人でなしなのは、そんなこと考える俺ですかね、それともコング&ナオミですかね。


 こうなってしまった原因は、語り手の目線のあり方の間違いにあったと、俺は思う。前半パートと後半パートでは明らかに、目線が違う。前半の人間ドラマにかなり比重を置いていたにも関わらず、後半はあきらかにコング寄りの目線で物語が語られるのだ。
 その転倒がこの映画の破綻を決定的なものにしている。「彼」は明らかに「彼女」以外の人間に興味がなく、見下している。その「彼」と人間の彼女に「共有するもの」があったとは、おれには思えない。思考回路が明らかに違うのだ。俺はコングにミス・ダロウへの執着は感じた。でもそれは、果たして「愛」か?おれには叫ぶ「おもちゃ」を取られた子供の癇癪に見えた。


 そして、人は、ゴミのように死んでいく。

 
 物語は「受け入れられなかった怪物」の悲劇として幕を閉じるが、作り手の目論見とは別のところで、俺はコングが死んでせいせいした、という面持ちで見ていた。
 行間を埋めていくなかで、出てくる物語上の破綻。それを無理矢理突破しようとした作品と思った。それこそがPJがコングマニアとしての、「愛」故の行為と知ってもなお、俺には受け入れきれなかった。中の人が演じた、コックの死に様の方がよほど無様で泣けた。


 駄作とは言わない。だが、傑作とは、絶対に口にしない。俺に言えるのは、愛は時に映画を、傷つけるエゴとなることもあると言うことだ。(★★★)


公式サイト:http://www.kk-movie.jp/

*1:美が野獣を殺すように。と続く。