虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「劇場版 鋼の錬金術師/シャンバラを征く者」

toshi202005-07-25




公式ページ


 面白い。映画としてきちんと面白い。いいじゃん。


 脚本を書いた會川氏がテレビシリーズの終盤の展開を映画を想定して描いていた、と言うように、映画のためのお膳立てをすべてテレビシリーズで揃えた上で、改めて一本の映画にまとめ上げている。シリーズ未見でも付いていけるように工夫されているので、俺のようなアニメ版を全話見れていない(ごめんなさい)原作ファンでもちゃんと付いていける。(ただ、全く事前情報もない人には、やはり辛いかもしれないが)。


 で、改めて、本編について描くと、これが「並行世界」を題材にした本格的SFの要素を持つファンタジーになっている。テレビシリーズの最終回で「錬金術世界」から1920年代のドイツという並行世界(以下、「現実世界」)に飛ばされた少年・エドワードについての物語である。
 開幕でど派手な掴みを見せるエドワード・エルリックは、錬金術世界で「鋼の錬金術師」と呼ばれた少年。彼は、そんな過去とは無縁の「現実世界」で今を生きている。面白いのは、「現実世界」で生きている以上、彼はもはや「錬金術世界」の人間ではない、という前提で物語が語られていくことだ。語り手の立ち位置は、むしろ現実世界に寄り添っていて、彼のかつていた世界は「幻想」ということになっている。かつての「現実」だった錬金術世界へ帰る術を追い求めていたものの、今は手がかりもない。どちらが夢で、どちらが現か。3年という歳月によって、彼にもよくわからなくなっている。
 だが、そんなエドは、占い師であるジプシーの少女・ノーアや、錬金術世界のある人物にクリソツのフリッツ・ラング(おいおい…)と出会うことで、彼は「シャンバラ」という世界を追い求めるトゥーレ協会という組織と関わっていくことになる。彼らの追い求めるシャンバラこそ、「錬金術世界」であった。シャンバラを追い求める彼らの目的とは一体何か。


 トゥーレ協会やナチスといったネタはともかくとして、カール・ハウスホーファーやエリック・ヤン・ハヌッセンまでさらっと引っ張り出してくるとは相当の偏愛ぶりだ。恐れ入った。そういった民族主義とオカルティズムが浸透していく当時のドイツで、もう一つ育っていくのが映像文化。そこにもきちんと言及していく辺り、作り手の本気度が伺えますな。そういった偏愛に世界を「錬成」していきながら、ハガレンワールドと違和感なく組み合わせていく辺りの、語りのセンス、そして作り手の志は、私を感動させるには十分だ。*1


 テレビ版で十二分に描いた錬金術世界よりも、現実世界たる当時のドイツを描き込んでいく作り手の選択は大正解。現実世界にうり二つの別人を出す、というアイデアも、逆にエドワードの夢現感を描くのには絶好のアイデアと言える。そうすることで現実と虚構が交錯し、映画としての強度がいやが上にも増していくのである。

 だが、難点もある。肝心の現実世界と錬金術世界を繋ぐ大道具立てがいまひとつぞんざいに描かれている感じがするし、異次元の扉を「人の死」という犠牲を払ってまで開けたにも関わらず、それらがどうも軽く扱われすぎているきらいもある。それに最後に取った兄弟の決断は、いささか不義理をしちゃいないか?という気がしないでもない。(薄幸過ぎるぞウィンリィ)。*2
 まー、なんというか、テレビ版の完結編にしちゃ、イマイチに思う人が多いかもわからんね。


 ただ、俺にとってあの結末は、安易な続編を作るまいという作り手の「ハガレンとの決別宣言」にも、昨今多い「マトリックス」などに代表される現実逃避系の話への皮肉にも見えた。事実、もう作られることはないだろう「鋼の錬金術師」。シャンバラを征く者、という副題の意味を考えるとき、これほど終幕にふさわしい結末もないのかもしれないと思う。多くの人々に愛されたシリーズをすっぱりと切るにはどんな思いだったろうか。すべてと決別した彼ら兄弟と、そして作り手のこれからに、幸多からんことを祈るのみである。(★★★☆)

*1:また当時のドイツの状況を、単一民族コンプレックスを持つ現代日本の状況との合わせ鏡にしている、と思うのだが、これ以上書くと筆禍になりそうなのでやめとく。

*2:ここからは独り言なんだが、<男女の恋愛関係一切進展なし>ってのはある層に媚びすぎじゃね?という気がした。どのシーンとは言わないが<「待っているのは中尉じゃない」>って台詞は、耳を疑いました。「ええええそりゃどういう意味じゃっ」(半笑い)て感じ。