「風雲児たち」≒「笑の大学」
「みんなは地鳴りのように笑い続けた。
九ヶ月近く恐怖と絶望しか持たなかった男たちが いま心のそこから笑いころげている。
笑いがみんなの心を蘇らせていった……ギャグとはなんとすばらしいものであろうか。
このところいやなニュースが続く。
中越地震。イラクでの香田証生さん殺害。ブッシュ大統領再選。そんなキナ臭い方向に流れていく時代のきしみと呼応しているかのように立て続けに。
だがそれでも苦しくても、人が生きていかにゃあ、ならない。悲観的になってる暇はない。
先日レビューした「笑の大学」は太平洋で戦死した喜劇作家にオマージュを捧げているが、そんな時代であろうとも、我々は生きなければならない。こういうときだからこそ、笑わなければならない。
笑の大学は見事にそんなメッセージを 伝えてくれる。
そのメッセージは、「風雲児たち」の上記の一文からインスパイアされたものらしい。
この一文は9ヶ月の海を漂流し続けた大黒屋光太夫たちがロシアに流れ着き、彼らの船が沈没してしまい、故郷の伊勢へと還ることが絶望的になったエピソードの中で描かれた。船の中にあった小便を溜めていた酒樽が岸に流れ着き、それを見つけた原住民が一生懸命開けようとしている様を、絶望に打ちひしがれた光太夫たちは見ている。光太夫たちは彼らにそれを教えてやらずに眺めている。
ついに、その樽を開け、その中身に口を付けて悶絶する原住民たち。
それを見て、笑いあい、そこから生きる活力を蘇らせる光太夫たち。
「生きていれば笑うことも出来るんじゃ」
光太夫はつぶやく。
「風雲児たち」は時代の運命に抗ったものたちの物語だ。それ故に彼らの生き様は過酷だが、それを陰惨な物語にさせないのは、みなもと太郎のギャグなのである。
これからも続くだろう、悲観的にならざるを得ない時代の中で、それでも生きるしかない。だからこそ笑わなければならない。そういう時代を生き抜く強さは、苦しいときほど笑える人なのだろうと思う。
苦しいときほど笑いは重要なのだ。
「風雲児たち」20巻を読み終えてそんなことを思った。
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