「虐殺器官」読了
伊藤計劃(id:Projectitoh)さんの処女出版作。
そういや、小説の感想ってはてなに移ってから初めて書くな。えーと。読みました。
- 作者: 伊藤計劃
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2007/06
- メディア: 単行本
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何故殺した。
ああ、俺はこの小説をどのように形容すればいいのだろう。
とりあえず世辞抜きで、「イマ」だから出てきた才能、という感じがする。すべての到達点とは思わないけれども、「伊藤計劃」という作家が世界に対して残した、ものすごく意味のある初めの一歩。という感じがする。
俺は最近めっきり読書量も減ってきて、しかもSFなんてめぼしいものをちょろっとなぞったくらいの男なので、この作品がSF界的にどのような位置づけになるのか、わからないのだけれど、その俺が読んでも面白く、何より「これは新しい」と思わされたのだった。
黒沢清*1、士郎正宗、押井守。そこにチャック・パラニュークがこんにちは<なにいってんだ。
俺の乏しい知識からでも、いろいろな影響が見えるっちゃ見えるけど、それを包括するのは「伊藤計劃」という意識が、シェパード大尉の人生を借りながら、そこから見える、ジョン・ポール*2という男が生み出した悪夢のような世界と対峙し、彼の意識を咀嚼して「伊藤計劃」の言葉で表現している、という形容が正しいような気がする。つまり、そこに作家としての個性が立脚している気がする。つまり「悪夢のような世界の一兵卒のロールプレイング」的な文体、とでもいうべきか。
なんというのかな。身体と思考は同居していながら、思考は常に継続しつづける、という表現が時折散見される。一人称であらばこそ状況によっては、思考しない時間の存在を描かなければならない、にも関わらず、思考は継続しつづける。状況に肉体が対応する、そこに思考も連動する、と我々は思う。ところが、対応しながら、思考は続いていく。つまり肉体と思考には奇妙に距離がある。
この小説で描かれる主人公は「歩く」ような意識であらゆる状況に対応し、人も殺せる男なのだと思う。そんな男の一人称が「ぼく」なんですよね。つまり、ここですよね。そういう肉体で、彼の繊細で感傷的な意識は継続している、というのは、ものすごく新しい表現*3だと思った。
主人公は肉体の行動を司る器官と、思考する器官を分けているのではないか、と思う。そうして、殺しに罪を感じてしまうような、繊細な自意識を守っている。そしてその自意識と死の記憶が。彼の人生と「伊藤計劃」という作家の意識とリンクする、のではないか、と。
話として個人的に思い出したのは、星新一の「生活維持省」。それを世界単位に広げたような。ジョン・ポール氏はその生活維持省の役人(通称:死神)に相当する気がした。
まあ、一握りの国の平和のために世界は戦争を続けているし、虐殺文法なんか使わなくても・・・という気はするけれども、すべてはラストの風景につながっていくわけだから、この突っ込みは野暮というものかもしれない。
なにはともあれ、あたくしと同年代生まれの方に素晴らしい才能が開花したことを心から喜びたい。
あといくつか。
突然唐突に始まるギャグがたまにあって、非常に驚くんだけど、あれはなんの意味が。ジョン・ポール氏はあれでときメモマニアかなんかか。シリアスな場面なのに爆笑してしまった。あと、尾行者がつくと、そこだけ妙に肉体と思考が連動しちゃうのは、「ジェイソン・ボーン」なんすか。
恋愛描写に関しては、面白かったのは「知的セクシーコマンドー」(俺命名)。わざと隙を作る、というやつ。あれが有効なの、そうとう頭いい女性限定のような気がする。つーか、少なくとも知的レベルの低い俺は隙だらけで使えんw。