虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「犬神家の一族」

toshi202006-12-20

監督:市川崑


 30年前の作品のセルフリメイク。というものであるらしいなあ。と他人事のように言ってみる。本来ならオリジナルへの思い入れの二三も語って、リメイク版のここが悪い、あそこがだめだ、と小言を並べ立てるべきところであるのかもしれないが、私は幸か不幸か、この元の映画を見たことがないのである。なんせ私が生まれて間もないころに公開された映画ですからねえ(そういう問題じゃない)。
 かといって、予習を兼ねて元の映画を見て、もう一度同じ話を見るならば新作の方からがいいのでは、と。順序が逆だろ、と思われるかもしれないが、正直出来のいい方を見ちゃったら、それっきりリメイク版を見ずに済ませちゃいそうな心持ちなので、そのような本末転倒なことの、まあ予防である。


 というわけで、初見である。その立場の人間として話を進めていくんですが。
 なんというのかな。非常に立派な器の映画でござんした。「映画」という「器」が大変良くできていましたよ。さすが巨匠と呼ばれる監督の新作ではあるだろう、と思う。ただ、と思う。どうも見ていて心が躍らないんですな。
 これはもう、ディテールの問題ではないのではないか、と思う。極力同じカットで、同じ台詞で、映画を撮ったと聞いたときの、イヤーな予感のようなものが、ぴたりと目の前にある感じ。見た目さえ同じに作ってしまえば、新しい具を放り込んで同じ味付けで作っても同じ味になるだろう、という、もの凄い乱暴な新作料理を食わされているような感じである。


 初めて見るお前なんぞに何が分かる、という話になりそうですが、そうではない。この映画は、リメイクである前に、初めて見る人間に向けて作った「完全新作」のはずなんです。
 なのに。なのにですよ。どうも見てて思うんですが、なぜ、いま、この映画を、この物語を、なぜ「語り直す」のか。2006年というこの時代にたたきつけたいのか。その気概がまったく、まったく見えなかったんである。正直言って、監督と、主演俳優が同じでも、今、この映画をやる意義があってこその新作ではないのか。しかも自作のリメイクですよ。デジタルリマスターでリバイバル上映、とかじゃなしに、わざわざ新作1本撮り上げたのならば、そこに新しい観客にきちんと伝えるべき「何か」があるべきなんです。


 ところが。非常に段取りくさいんですな。「儀式」みたいに話が進んでいく。決まった型に、ハマらない俳優を無理矢理はめ込んだような。俳優・女優の方が無理矢理「原型」の方に合わせていってるような、奇妙な感じを受けた。映画の作り方がいびつなせいだ、と気づくのに、そう時間はかかりませんでしたよ。
 例えばです。年を食った石坂浩二を無理矢理走らせたりしてるんですが、あんなもんテクテク早歩きさせりゃあいいんですよ。還暦過ぎてんだから、金田一さん。そりゃあ「よく頑張ったね」とか言えるけどさ、なんで若くもない人間走らせて作り手が悦に入っちゃてるわけ?不自然以外の何物でもないですよ。
 いくら若作りつったって、年齢は否が応にも見えて来ちゃうわけでさ、だったら、年喰った金田一って設定にすりゃあ良かったんですよ。深田恭子もなんかこう、「老人をいたわるような感じに接する」とかそういう演出を施せば、いくらかマジに見えた感じがする。


 そんな年喰った金田一じゃダメだっつんなら、なんで金田一役を石坂浩二にしたの?という話になる。ちゃんとキャスティングしたんなら、俳優の年齢や技量に合わせた演出をすべきなんです。俳優に映画が合わせることも必要なはずなのに、それをしないのは、俺に言わせりゃ怠慢ですよ。物語を大事にしてないんです。
 松嶋菜々子みたいにタッパのでかい女優をキャスティングしておいて、「彼女には力の強い犯行は無理です」とか言ったって、彼女、金田一より背高いし、ガタイもいいよ、って突っ込まれたらダメだろと。その辺のクリアすべき場所がことごとく×なまま話がすすんでいく。
 しかも、オリジナルでは成功していたかはしらないが、それを再現してすべっている演出も多い。例えば、皆が口々にしゃべって、場の混乱ぶりを表現する場面での、演出の空回りっぷりなんかひどくて、「うわなんじゃこりゃ」と思いましたよ。要は演じ手の技量が足りないか、でなきゃ監督の技量が落ちとるか、その両方かのどれかですよ。だったら、その辺の力の差を「誤魔化していく」必要があったはずなのに、それすら満足に出来ていない。


 見た目的には決して出来の悪い映画じゃないんだけど、俳優が一生懸命「演じている」、監督が無理矢理「演出している」とこちらに感じさせてしまうのが、とにかく辛い。身の丈合った「犬神家」を作った方が、趣があったのではないか、と思うのである。(★★)