虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

よつばと明日の世界。

toshi202006-12-15



 神保町へ行ったので「よつばと!」6巻の早売りを買った。読む。面白い。


 この漫画の面白いところは、主人公のよつばちゃんから見た世界と、世界(もしくは大人)からみたよつばちゃんの世界のズレを楽しめるところだと思う。よつばちゃんは知らないことがいっぱいで、だからこそ間違ったこと正しいことを彼女なりに斟酌しながらもどん欲に、楽しく受け入れていく。
 よつばちゃんのイノセントは言ってみれば作為のもとに作られたフィクションであるが、それを感じさせないように視点を入れ替えつつ彼女の行動を追いながら、しかし、フィクションとしての奔放さを持ち合わせている、という奇跡のような漫画だ。


 しかしながら、フィクションによってナチュラルに語られるイノセントは、そこに大いなる作為がある。もとい作為する意志だ。


 物語には多かれ少なかれ作為がある。しかしながら、その作為に乗るか乗らないか、というのはまた受け手の問題だ。よつばちゃんみてーな幼児はいねーよ、隣家が美少女3姉妹なんてありえねーよ、と思いながら読めば、「よつばと!」は一気に色あせる。作り手の思惑にあえて乗るか、乗らないか。それが問題である。
 そもそも、よつばちゃんと「とーちゃん」は血が繋がっていない。だが、そのなれそめについては、海外で「拾った」らしい、というかなり曖昧なセリフ以外には一切語られない。よつばと「とーちゃん」のような関係は「嘘くさい」が、そこを問いただしたらつまらない。


 物語とは、作為を受け入れるところから始まる。


 例えばメイド喫茶というのがある。俺は行ったことないんだけど(いやほんとだよ?)、この店で金を払い、その限られた時間を有効に使うにはどうしたらいいか、と行ったら、代価を得るために思い切り笑顔になって「いらっしゃいませ、ご主人さまあ」という彼女たちの「イノセントな忠誠」・・・を装った「作為」を丸ごと受け止めて、「乗ってあげる」ことだろう。
 彼女たちの「作為」だの「境遇」だのに思いを馳せるのは、店を出た後にでも考えればいいことで、その場の作為に丸乗りしてこそ、「メイド喫茶」という店を真に楽しめるわけだ。


 映画だってそうなんだよ。結局。「トゥモロー・ワールド」を見て、なぜ世界に子供が生まれないか、などということを問いただしたってしょうがない。「天空の城ラピュタ」だってパズーが「ラピュタ?んなもん、ねーよwwwwwww」などというメンタリティの少年だったら、物語自体が始まらない。つぶれゆく炭坑でくすぶった人生を送って、一生を終えただろう。ラピュタはあるから、あるんだよ!その意志が、彼をラピュタに導く。飛行石などきっかけに過ぎないのだ。
 世界はマトリックスなんだよ。フォースは必ず身に付く、おまえはクリプトン星からやってきたスーパーマンなんだ。そこからすべてが始まる。
 


 俺が映画を「政治」やら「メッセージ」を読み解くものではなく、「物語る作為」を読み取り、その上でそこに「乗る」。それこそが、「物語」を生かす道であると言い続けてきた。だから私は「物語至上主義」なんて大仰なものを、こんな僻地でささやかに、掲げ続けているのだ。
 物語はその作為を受け入れることから始まる。作為を作為であると、思った時点で、あなたは「物語」を殺しているのだ。


 「よつばと!」を読んでいる間は、俺の中ではよつばちゃんは、確かに実在している。それでいいのだ。