虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

または私は如何にして心配するのを止めて「水女(レディ・イン・ザ・ウォーター)」を愛するようになったか

toshi202006-11-01




私にはこの映画を楽しむ「技術」がない。



  どこで聞いたか忘れた、伝聞の話であるが、かつて故・淀川長治先生はどうしても楽しめなかった作品について、こう言ったと聞いたことがある。真偽にほどはしらないが、淀川先生らしいと思ったし、この「楽しむ技術」という言葉は、長く俺の心の中にある。


 こういう感想を書き続けていて苦労するのは、作り手と送り手の自分を如何にして擦り合わせていくかということだ。俺はそう言う部分にはもの凄く神経を使っている。
 言ってみれば、作り手はどのように「この映画を楽しんで欲しがっているか」という部分を如何にして受け取り、こちら側が対応していくか。その技術である。


 俺は映画館に熱心に通い始めたのが20代前半の頃からで、それ以前はどっちかというと漫画やゲームの方に傾倒していた人間である。だから俺は、映画好きと言われる人に比べて圧倒的に「映画体験」が不足していることを自覚していて、それが長くコンプレックスだった。
 だが、だからこそ、俺はそういう人たちに対抗するためには、「今」の作品を観客として100%に近い形で楽しんでいこう、という気持ちであった。俺はそのための気持ちの置き方を常に考えて映画に臨んできた。


 そんな俺が、たまに、他の人の感想を見て「イラっ」とすることがあるのだけれど、そういうのは大抵「作り手より上からものを見ている」態度の文章である。はっきり言って何様だ、と思う。
 そういう人の中には「評論家」様がいるのだと思う。映画を「見てやっている」という気持ちだ。映画を「採点」してやってる、という気持ち。でもね。俺は前から言いたかった。


 受け手は作り手の赤ペン先生じゃねえ。


 あそこがだめだ。ここはこうすべきだ。ここで減点。あそこで減点。ベタすぎてダメだ。下手くそ。
 作り手ってのはなんだ?こんなこと言われるために何ヶ月、何年、気の遠くなるような作業を続けてきたのかよ、と考える。それが的を射ているならまだいい。そうでない文章があることが、俺を暗澹とした気持ちにさせるのだ。
 俺自身は作り手となるべく目線の位置を合わせていこうと試みる。何を語ろうとしているのか、何を伝えようとしているのか。ベテラン監督だろうと新人監督だろうと。すべてを、100%理解するのは無理だけれど、そういう境地に持って行き、その上でこちら側から映画に「踏み込む」。
 そういう作り手への「敬意」もないくせに映画を見て、勘違いしながら偉そうに語る奴とか見るとたまに、吐き気がするくらいむかつくのだ。そして誓う。


 こいつみたいにはなるめえ、と。


 俺がなんでこんなにイライラするかと言えば、それは多分、俺の中にも「そう振る舞いたい」という気持ちがあるのだろう。確かに上からものを言うのは気持ちいい。そして、俺自身の文章にも、たまにそういう顔がのぞかせることがあるからだと思う。しかし、それは傲慢だ。そして、そんな自分が嫌いなのだ。
 観客も人間だ。楽しめない映画だってあるだろう。理解できない映画だってあうだろう。俺だってある。だけど、その時俺はこう思う。「俺に「楽しむ技術」がない」のだと。


 楽しんだ人間が愚かで、楽しめない人間が偉い?そうではないはずだ。


 我々受け手もまた、「楽しむ技術」を磨き、自分ならぬ作り手との距離を縮める努力をすべきなのだ。そう思う。


 そしてそんな俺の「こころ」のなかに、「レディ・イン・ザ・ウォーター」はすっと入ってきたのだと思う。