虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

最近買ったマンガ

 最近こういうの書いてなかったので書いておこう。


PLUTO (1) (ビッグコミックス)PLUTO (1)」(浦沢直樹 小学館


「あと六人…答えはもう…出ている。


 浦沢直樹手塚治虫の「鉄腕アトム」を元にした作品であるが、意外な事と言うべきか手塚先生と浦沢先生のマッチングはおどろくほど「ピタリ」と合った。この意外な符号の一致。だが最近の浦沢作品の傾向を見ると、必然であったと、今になってみて思う。


 「YAWARA!」などのビッグコミックスピリッツ連載にしろ、「MASTERキートン」などのビッグコミックオリジナル連載にしろ、浦沢作品は未来への「希望」を描いてきた。
 だが、「MONSTER」を連載して以降、浦沢直樹は「絶望」を描くようになった。「20世紀少年」にしてもそうだが、過去にしか希望はない。未来を夢見ていた過去が一番幸せな時で、「過去の未来」である「現在」は絶望が支配する。そういう世界観だ。
 いつの間にか、浦沢直樹は「絶望」の作家になりつつある。それが手塚治虫とシンクロする要因だと俺は思う。


 あるインタビューで宮崎駿手塚治虫についてこんな風に評したことがあった。「あの人は人間が嫌いだ。」と。


 手塚治虫が「アトム」でブレイクして、一躍夢多き未来を描くマンガ家として神格化されたとき、手塚治虫は「アトム」が嫌いだと公言している。それは様々な愛憎があるのだろうし、思い入れ故の言葉だろうが、「アトム」という存在は決して生やさしいものではないということなのだと思う。アトムは常に「絶望」の中で生きるヒーローであり、それは人間には決して共有されることない哀しみがある。
 彼は悪のロボットと戦うが、彼にとっては「人間を守る」という正義のために「同胞」を「壊して」いることになる。それが彼にとってどのようなものなのか。彼は決して人間とは共有できないものを抱えている。
 それは「ブラックジャック」にも言える。人の愚かさに背を向け、人間ならざる「ピノコ」と生きる間黒男という人間は、まさに手塚治虫という作家そのものと言えるのではないか。


 人間というのは実に勝手な生き物だ。故に「愚か」である。作家には2種類の人間が居る。その「愚かさを含めて愛せる」者と、「愚かさを憎む」者だ。「ナウシカ」コミック原作において、人間の愚かさの結果をも受容し、引き受けた宮崎駿は前者だとするなら、浦沢直樹手塚治虫も後者であると俺は思う。


 この「プルートウ」は人間の愚かさを嫌うが故に、ロボットという存在を通して物語を紡ぐことを選んだ浦沢直樹手塚治虫が共鳴して奏でる、「絶望」の二重奏なのではないかと思う。
 浦沢直樹はいつか「キートン」のような人間を描くことが出来るのか。「20世紀少年」と「PLUTO」はその分岐点のように思う。
 


僕と君の間に 1 (ヤングジャンプコミックス)僕と君の間に(1)」(鈴木央 集英社

「ぼくは君が好きだから…… いつも あの空の向こうを見ていた君のために ---------ぼくは旅立つ。」


 祝・鈴木央 初ファンタジー連載!読み切りではファンタジーばっかり描いていた人なのに、ジャンプではなかなか描かせてもらえなかったんだよね。まあ、央先生が描こうとしてるファンタジーは、本格的なものなので、ジャンプとは相性悪いっちゃ悪いんだけど。

 主人公がプニプニ機械工・ホーク。で、ヒロインが年ま…妙齢の美女・ダリアというショタ&成熟した女性という組み合わせ。またかい。いや、それでこそ央先生!とも言えるけど。


 話は冒険譚というよりも、異文化見聞録という趣の話。主人公が最弱、ヒロインが最強、という設定になってて、ヒロインに庇護される主人公、という「ICO」の逆バージョン。だけど、ヒロインが最強すぎなので、二人は訪れる都市とは常に一線を画す存在。主役キャラのチューニング下手は相変わらずだ(笑。
 奴隷都市の話にしろ、彼らは常に文明と交わるという事はなく、彼らは行く先々で危機に見舞われるけど、基本的には、住人は彼らと交情することはない。「主人公たちと世界の間」の物語ではなく、「僕と君の間」の交情がキモ、という、変則的少女マンガという見方も出来るかもしれない。


 それにしても、今回の主人公は異常。何が異常って女性ホルモンの含有っぷりが。「ライジングインパクト」のキャラで例えるとガウェイン(プニ男)というよりパーシバル(プニ娘)っぽいので、異常に嗜虐をそそる守ってやりたくなる、という造形になっちょります。男主人公なのにヒロインなのです。