虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

原作における「地球外少女」とアニメシリーズの「地球外少女」


元々は「モーニング」に不定期掲載された読み切りシリーズを一冊にまとめたのが「プラネテス」のコミックスだ。その第1巻は、シリーズの続き物というよりも読み切り集の趣が強い。その中の一編が「地球外少女」。

原作のノノは、長身だけどロリ体型&ロリボイスのアニメ版ノノとは違い、バレーボールの長身選手のような感じのちょっと勝ち気な笑顔をする少女。なので、「12歳」という真相がドンデン返しとしてきちんと機能してる。

ま、それはおいておいて。


「地球外少女」は宇宙の寓話である。


原作におけるハチマキは悩める青年。望んで宇宙へ出てきて働いているが、働いている時に足を折って入院して以来、宇宙にいることに疑問を感じていて、地球に帰ることも考えている(アニメ版は「帰ったら?」と勧められても拒絶している)。宇宙にいることで見えてくる現実へのゆったりとした幻滅、地球への思慕(ホームシック)も募る。

そんなときに出会うのが2人の人物。ハリー・ローランドというかつての英雄と、ノノという少女である。

ストーリーの大筋はアニメと原作はそんなに変わってはいない。宇宙に魅入られた「地球内少年」は宇宙から拒絶され、月に囚われた「地球外少女」は、毎日地球を見上げる。ハチマキは宇宙に対する二つの「絶望」が提示される。
一方は「絶望」に押しつぶされて死を選ぶ。それを目の当たりにしたハチマキは、喫煙室で自らの宇宙における人類の欺瞞を口にするのである。

それを聞いたフィーは、鉄拳制裁&一喝したあとこう言う。


「もう、ここは人間の世界だ。…そうとも。暖かいところに引きこもっていても何の解決にもなりゃしないんだ。」


これはかつてフィーもハチマキと同じ思いをしていたということである。「そうとも」は、半分自分に言い聞かせている言葉でもあることを示している。彼女だって、いつも壁にぶち当たっているのである。(その辺は原作コミックス第4巻 PHASE19-23辺りを参照のこと)


そして、ノノと再会したハチマキは、彼女の絶望とその中で生きる「覚悟」と「しなやかな強さ」を目の当たりにする。


一本のストーリーとして完成されているこの原作を、アニメシリーズとして脚色することは相当に勇気のいることだろうが、脚本の大河内一楼氏は見事にやってのける。

アニメ版は寓意をぐっと抑え、人間ドラマであるアニメシリーズとしての一エピソードとして、感傷ドラマにシフトさせている。

ノノはこのアニメには珍しく、「可愛さ」、つまり「萌え」が強調されたキャラクターになっている。

つまりアニメにおける彼女の位置づけは「プラネテス」というアニメシリーズの象徴、絶対不可侵のやんごとなきヒロインとして描かれている。アニメ版プラネテスは非常にリアルで泥臭いキャラクターが多数登場するが、彼女はそう言ったものとは明らかに無縁の位置づけに据えられているのだ。


逆に言えば「彼女は『人間』ではない」のである。(故に「地球外少女」)


「私の海」でのシーンの意味合いも違う。切なさは変わらないが、原作よりも幻想的、感傷的に落としている。それは彼女が一登場人物とは少し違う意味合いがあるからだと思う。原作のノノは「人間の内なるしなやかな強さ」が強調されているが、アニメ版の場合「『人間』ではない彼女の儚さ」が伴うせいではないかと思う。

「覚悟なら、もう出来てるよ。


広い海だな、しかし。」



この台詞が原作においてより印象的なのは、そこにハチマキ自身の成長があるからだ。アニメシリーズはどちらかというと、別離の「感傷」なのだが、それは彼女との関係が「始まった」とするアニメシリーズゆえである。
この傑作エピソードを見事にシリーズにおける一話として脚色し、組み込んでみせた手腕はもっと賞賛されてしかるべきだと思う。