虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

『コンクリート』上映問題に見える、捏造されるネット言論(歯車党日記より)

http://haguruma.2log.net/archives/blog20040619.html

以前秘宝フォロワーだの信者だのみたいに括られたんで、秘宝に関する部分はノーコメントの方向で。(一読者ではあるが)


 こういったマスコミによるネット言論の意図的な弾圧は、ここ最近よく見かける。先日の拉致被害者家族会に対するバッシングにしても、その感情的で配慮に書いた物言いに対する抗議がいつの間にか「拉致問題解決」そのものに対する抗議にすり替えられ、「匿名で被害者家族を攻撃するネット許すまじ」という記事へと新聞・週刊誌で仕立て上げられていった。

 でも、俺、ネット言論を言論として扱え、ってほうが無理だと思う。それこそ、電波な新聞投書が「言論」ではなくて、「新聞はみなさんの声で出来てます」という既成事実を積み重ねる意味しかないのと同じでさ。どれだけ言論として機能するのだろう。それこそ、閉鎖的な場が醸成されたなかで生まれてきた「のようなもの」でしかないような気がする。


ゴミみたいな誹謗中傷も多いけど、中には匿名だからこそ見えてくる本音もある玉石混淆なのがネット言論。そこから有益なものを拾い上げて血肉とするセンスが受け手には必要となってくるのだから

 それを活字でやってたのが「噂の真相」だけれども、覚悟という意味では岡留編集長とひろゆきじゃ雲泥の差があるわけで。「噂の真相」は載せた以上はどんな奴が書いた記事でもそれは「噂の真相」の責任として引き受けて、対応してきた。2ちゃん言論とその周辺には責任者が事実上存在しない。そこが問題だ。

 ネット言論がきちんと活字のなかで対等なものとして見なされるには、一般マスコミに対抗しうる言論としてきちんと取りまとめ、法的手段すら実行、もしくは対応できる(それこそひろゆきに訴訟を持ってかせない)ような体制が必要じゃないの?ネットの中じゃ中小企業への圧力や、市民団体への嫌がらせくらいにしかなり得ない、ってこってすよ。ネットの側がどれくらい腹括れるかで決まるよな。

 
 どんなに「キャシャーン」が駄作でも、どんなに「コンクリート」が安っぽくとも、表現として扱われる重みも、そして表現への責任も、クリエーター>評論家>ネット感想素人(俺)であるように、表現の重みは「表現」する側がどこまで「責任」を引き受けるかで違ってくると思う。
 家族会>ネットってのも当然だと思う。土俵に上がらない観客が力士ヤジっても、観客は観客、力士は力士、ヤジはヤジ、ってことと同じ。圧力にはなるけど、立場が変わるわけじゃない。
 家族会と同じ扱いを受けたければ、批判の矢面に立つ、という家族会が払っている代価をこちらも払う覚悟がなければならないはずだ。

 ケンカってのは振りおろした拳が当たるところに相手がいてこそだと思う。捏造されても仕方ないと俺が思うのは、そういうところにネット言論がいないからだ。安全な場所に隠れてケンカ相手を撃つやつは単なる卑怯者だろう。たとえそれがBB弾であろうともだ。