虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

感想を書く意味。

 俺にとって感想を書く、というのは「作品」と相対する方法である。「江戸川番外地」というサイトを「映画感想サイト」と認識してくださってる方々が結構いて、その期待にも応えていきたいとは思うのだが、俺自身にとって「作品」というのは、「アニメ」だろうと「漫画」だろうと「小説」だろうと、同質にとらえている。


 人には「共感能力」というのがある。他人、自分、物、組織、家族、作品、村、県、国、他国、神…などなどいろいろな方向への「共感」があるけど、それら全部をひっくるめて共感する能力は人間がもっとも発達している生物であると俺は思う。

 しかしその能力には限界がある。


 だから、アニメにしろ、漫画にしろ、小説にしろ、映画にしろ、人にとって物語と出会う量には限界があり、そしてそれらすべてと向かい合うにはさらに量が限定される。その量を超えると、共感能力が減退、もしくは麻痺してしまい、その能力を発揮できなくなってしまう。

 オタクほど多い傾向だと思うんだけど、物語に出会った量を問題にする人がけっこういる。その経験が多ければ多いほど、ランクが高いと見なす傾向にあるような気がする。
 確かに向き合う「経験」は必要だ。だが、過剰な物語との出会いは、本来あるべき能力を減退させてしまいやしないか、と思うのである。1年に365本映画を見たとする。だが、それらすべてに正当な評価が下せるか?正しく向かい合ってると言えるのか?共感能力を超えた物語との出会いになんの意味があるのか?と俺は思う。

 俺は、「質」を重視している、などとおこがましいことを言えるような名文家ではない。だが、「作品」に向かい合う姿勢だけは、人に恥じない「感想」を書こうと決めている。それが江戸川番外地というサイトをやっていて、ようやく見出しかけている意味だ。