虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「映画 聲の形」

toshi202016-12-15

監督:山田尚子
原作:大今良時
脚本:吉田玲子


 遅まきながら師走も半ばになってからの鑑賞。気がつけば流れ流れてさいたま新都心まで足を伸ばしていた。


ワシの娘がこんなに可愛いわけはない - 虚馬ダイアリー


 以前書いた事があるが、私は京都アニメーションの作品が苦手だった。正直今もそれほど苦手じゃないとは言えない。
 初めて京都アニメーションの存在を認知したのがご多分に漏れずであろうの「涼宮ハルヒ」シリーズなのだが、その時点からすでに苦手意識を持っていて、なかなか心が受け付けなかった。その後「涼宮ハルヒ」にはなんとか慣れてきたものの、苦手意識は変わらず、「らき★すた」などの話題作を出すたびに一応第1話に目を通すが、「ああー。うーん。いいや。」とそこで見るのをやめる。唯一まともに見ていたのはテレビアニメ「日常」くらいのもので、この映画を監督している山田尚子監督作品「けいおん!」にしろ「たまこまーけっと」にしろ、ちょろっと見て「ああー、うーん。苦手だ。」とそのたびに心を閉ざしてきた。
 一度苦手意識を持ってしまうと、どうしても足が遠のく。心が離れる。「映画 聲の形」にしたってがそんな感じである。


 だが、Twitterで公開後しばらく経っても話題が途切れることなく、様々な論争が起こったり、騒動が起こったり、同僚のひとりがいたく褒めていたのも手伝って、ようやく3ヶ月近く経って重い腰を上げたわけである。
 で、見ました。


 結果。大号泣。


 もう油断してたのもあるのだが、完全にツボにはまって泣いてしまった。


主人公が持つ自己嫌悪の壁。



 原作漫画は読まずに臨んだのだが、見終わった後速攻で全巻買って読み、色々考えた。
 物語は、主人公の石田将也が小学生時代にひとりの女の子が転校してきたところから始まる。その女の子は耳が不自由な聾唖の子であった。名前を西宮硝子という。
 彼女は手話や筆談でコミュニケーションが出来るが、耳が聞こえない、まともにしゃべれないというハンデから次第にクラス内で浮き始め、からかいの対象となる。女子は無視をしたり、陰口をたたいたりしていたが、彼女に直接ちょっかいをだしていたのは、彼女の「おかしさ」を退屈紛れに興味を抱いた将也だった。しかし、彼女の補聴器を壊した事で彼女の母親が直接学校に抗議をし、将也はいじめの主犯として教室で担任から糾弾され、それがきっかけで次第に彼自身がイジメの標的となっていく。
 かつて一緒につるんでいた奴らからいじめられ、阻害され、孤立した結果、将也は高校生となった時には、周りとの壁を自分からつくっている男になっていた。自分が硝子にしていた過去と向き合えば向き合うほどに、自己嫌悪は募り、やがては自殺を試みようとするまでに至る。そんなとき、彼は硝子と再会する。


 映画を見ていてなにに不意を突かれたのか。それは、傷つけられる痛みを覚えた事で、人を傷つけてきた過去と向き合うたびに、自分には「生きている価値」がないんじゃないか、という主人公が抱えているその感覚が非常によくわかるからだ。自分が自分に戻ることを許せない。自分がこわい。なにより、自分が死ぬほど嫌い。
 自己嫌悪の感情が強すぎるあまりに、そして自分を信じられないがゆえに他者を自ら遠ざけ、近づかない。その将也の感情は、ある時期自分が持っていた感情とすごく似ていた。将也はかつての自分と共有出来る部分の多さに、思わず引き込まれる。
 そんな彼が壁を取り払おうとしたのは、かつていじめてしまった相手、硝子だった。

聾唖という題材と、ディスコミュニケーションというテーマ。


 この映画、聾唖の人にはすこぶる評判が悪いそうな。それはなんとなくわかる気がする。それは硝子のキャラ造形にある。
 聾唖の人間も普通の人間だ。いじめられればイヤだし、傷つく。しかし、彼女はそのいじめられた将也に対し、拒絶をしない。そのことに対して、聾唖の人たちは当然違和感を抱く。俺達はこんなんじゃない、と。次第に距離を縮めていく中で、証拠は将也にほのかな好意すら抱いていく。


 この映画が聾唖者を扱ったことで、この物語の眼目はむしろわかりにくくなっていたのではないか、と思うのだが、実際の所、俺がこの映画に対してひどく共感していたのは、この映画は「ディスコミュニケーション」についての映画なのでは無いか、ということだった。

 ヒロイン・硝子が聾唖者であることは、ほんのきっかけに過ぎず、実際は「人と人はそう簡単にはわかり合えなどしない。」という事なのでは無いか。
 将也は少なくとも小学生時代、硝子が何を考えているのか知りたいと思っていた。そんな気がする。だから彼自身は無意識にちょっかいを出す。しかし、彼女はそれをおくびにも出さない。何をしても何をやってもワカラナイ。相手の「あるべき感情」が見えない。その事に将也はいらつき、やがて行動がエスカレートする。
 一方硝子は普通にコミュニケーション取れないという事実に、異様なコンプレックスがある。彼女が声を発すると周りが困惑し、時に笑われ、からかわれる。だから感情を見せないし、その事に対し申し訳なく思ってしまう。これは彼女の「性分」なのだと思う。


 「伝わらない」「伝えられない」。
 そのすれ違いがこの物語のすべての始まりなのでは無いかと思ってしまう。それは別に聾唖者には限らない。健常者だろうと同じ事だ。ほんの少しボタンが掛け違っただけで、人は簡単にわかり合えなくなる。それは主人公が直に経験してきた事だ。
 この映画の登場人物達は、どこかでそういう壁を作り、または相手の思いを斟酌せずに「自分の一方的な感情」をぶつけたりする。会話が成立しているようでしていない。わかり合えているようでわかり合えてない。コミュニケーションの難しさ、伝えることの難しさがこの映画の根幹にはあるのだと思う。


 「伝えられない」事の深く暗い絶望は想像以上の闇なのかもしれぬ。終盤にヒロインが起こす「行動」はまさに、それが募ってしまったが故に起こしたことのように思う。
 主人公が物語を通して心の壁を取り払って、今まで聴いてこなかった声を聴く。見てこなかった顔を見る。そして涙をこぼす。
 そこから全てが始まっていく。「生きる価値すらない」と思ってきた人間が、初めて「自分にも価値があると思える」人生が。俺が泣いてしまったのは、多分その「始まり」を共有できたからだと思うのである。大好き。(★★★★☆)