虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「久米宏のラジオなんですけど」(TBSラジオ)今週のスポットライト!!ゲスト:ヤン・ヨンヒ(映画監督) 書き起こし。


 以前「池上彰」さんがゲストの回を書き起こして反響を頂いた、久米宏さんがパーソナリティを務めるラジオ番組「ラジオなんですけど」のスポットライトコーナー。そこに、今話題の映画「かぞくのくに」の監督・ヤン・ヨンヒさんがゲストに招かれていまして、映画の舞台裏や、映画の背景について興味深い話をされていたので、1年半ぶりに書き起こしてみたいと思います。


映画「かぞくのくに」公式サイト
http://kazokunokuni.com


関連エントリ:
虚馬ダイアリー 「池上彰」回書き起こし http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20110319#p1
虚馬ダイアリー「かぞくのくに」感想 http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20120826#p1

久米宏の「かぞくのくに」逆キャンペーン。

久米宏(以下「久米」)「ヤンさんです。こんにちは。」
ヤン・ヨンヒ(以下「ヤン」)「どうも。こんにちは。よろしくお願いします。」
久米「黒いニットのワンピースを」
堀井美香「お美しい方ですねー・・・。」
久米「うん?」
堀井「きれいな方ですね。」
久米「女優さんもやってた。」
ヤン「(照れ笑いで)いやいやいや・・・。もう最初から触れられたくない過去を久米さん・・・(笑)。」
久米「女優さんはやってたラジオのディスクジョッキーはやってたからもう」
堀井「パーソナリティーを。」
久米「僕なんか教えてほしいくらいのもんで」
ヤン「(恐縮しきりで)いやいや・・・(笑)」
久米「ま、「かぞくのくに」というね。この番組ではね、キャンペーンでいらっしゃる方はね、石川さゆりさん以外(一同笑)、ないんですけど。キャンペーンって変わっててね。ラジオでキャンペーンでいらっしゃる場合には、ヤンさん側の映画製作者側からラジオ番組にね、「ラジオ番組に出たい」という申し込みがあって、「よろしいです。是非いらっしゃってください。」って出ていただくのがキャンペーンなんですけど。このキャンペーンは非常に変わっていて。僕が「この映画はいいから是非来てくださいやるから」と僕がお呼びして、という逆キャンペーンみたいな。」
ヤン「恐縮です。」
久米「わざわざ時間を作っていただいて恐縮です。」
ヤン「いやもう、本当にありがとうございます。ってことで、ご無沙汰しております。」
久米「ぼくは「かぞくのくに」という映画を拝見して、あのー井浦新さんもねおっしゃってますけど、新くんもね「政治的にどうのこうのってことはどうでもよくて、とにかく『家族』のはなしとして見てもらえればいいんだ。」と話してましたけど。ぼくは「家族」の話もどうでもよくて、映画として非常に面白い。」
ヤン「あー、ありがとうございます。」
久米「ぼくは純粋に映画としてすんごい面白かったんで。」
ヤン「わお。」
久米「あー・・難しいことを言ってもいいんだけど、そういう話は抜きにして映画としてとてもいい出来だ。」
ヤン「わー・・・・。わあー!どうしよう、もう一人で昼間っから飲みそうですね!番組終わると。うれしくなってきちゃった。シャンパン空けたくなってきちゃいました。」

映画は国や政治を越える。

久米「僕もわりと昔から映画少年みたいなところがあったりして。日本映画は苦労してて、低予算映画っていっぱいあったわけです。低予算映画の話をね。」
ヤン「はい、低予算映画です(キッパリ)。思いっきり低予算映画です。」
久米「それでプロダクションもいっぱいあったりして、プロダクション苦労してやってる方も存じ上げてて、低予算だけど出来のいい映画って時々あるんですよ。これは、よくできてた。ぼくはねあのー、この映画の話をしてね、本人は意識してないだろうけど、多分小津さんの映画が好きなんじゃないかな、この監督は、と。小津さんの(作品を)見てないだろうけど、という話をしたんです。」
ヤン「小津さんの映画を、私が、ですか?」
久米「うん。」
ヤン「もちろん拝見してますけど、意識したことも・・・普段「私は小津ファンだ」とかいうわけでもないんですが。」
久米「僕がラジオで言ったのはね、「この監督は小津安二郎の映画の影響をうけているに違いない!」とそう言ったんですよ。」
ヤン「ヨーロッパの、ベルリン映画祭の、日本映画を研究なさってる観客の方が同じことおっしゃいました。」
堀井「ふうん。」
ヤン「今、久米さんがおっしゃったことと同じことをおっしゃいました。」
久米「同じ見方をする人がいるんだー。衣笠さんと同じように(一同笑い)。僕本当にそう思ったんですよ。あの間といいね、台詞の間といい、台詞が少ないねと僕言ったんです。」
ヤン「台詞は少ないんですよ。私はおしゃべりですけどね。」
久米「そうなんですよ。台詞が少なくて説明過多じゃないところがとても気に入ったんですよね。日本のテレビドラマもひどいんですけど、日本の映画もハリウッドも説明過多になっていて、「そんな説明するなよ。見てる人間そんな馬鹿じゃねーぞ。」という映画が多すぎて」
ヤン「途中で寝ててもついていけるという・・・」
久米「そうそう。かなり一生懸命見ないとバックグラウンドの説明もあまりないし、帰国事業についてもほとんど説明なしだから、かなり一生懸命見ないとわからないんですけど、映画ってそもそも一生懸命見るもんなんですよ。あのー、懸命に。懸命に見て、奪えるものは奪いたい、というのが金払って見る人間の立場でね。一生懸命見るのに値するつくりになっているのは、とても気に入りましたね。」
ヤン「あたしがそういう映画が好きなので、いろんな国の映画を普段見に行くときに、その国の歴史とかなんにもわからなくても、聞いたこともない小さな村の話とか、自分が全然知らなかった時代の小さなコミュニティの小さな親戚・家族のそういう(説明が少ない)話がすごく好きなんですね。なんかよくわかんないけど泣いちゃったとか、笑っちゃったとか。で、あとでgoogle(検索)するとか。」
久米「日本の人あんまり見てないんですけど、イランの映画だとね、結構わけわからない映画があるんですよ。で、なんだろうなこの映画、と思って、最初の30分くらい「なんだろうな」と思ってるんですけど、だんだんだんだんわかってきて、最後に泣いちゃうとかね、そういう映画ってあるじゃないですか。現実の世の中ってひどくわかりにくくてですね、そういう世界で僕ら生きてるんですけど、映画の中の世界はひどくわかりやすくて、というのは嘘じゃない?」
ヤン「はいはい。」
久米「僕たちの生きている世の中ってのはひどくわかりにくくて、みんな憶測とか考えたり、誤解したりして生きてるんで、映画の中だけすごくわかりやすいというのは嘘なんですよ。」
ヤン「・・・馬鹿を作りますよね。えへへへへ(笑)。」
久米「そういうこというから誤解されるんですよ。」
ヤン「あ、ごめんなさい(笑)。」
久米「(笑)いや、僕もそう思うんです。そういう点でこの映画はとても気に入って。」

井浦新の「引き算」する役作り。

久米「実はサクラちゃんのお母さんて、土曜ワイドラジオ東京っていう番組を昔やってたんですけど、8時間番組ってのを。その中でリポーターをやってた方なんです。」
ヤン「安藤和津さん?」
久米「安藤和津さん。だからお母様のことをよく存じ上げていて、お母様に似ればもう少し美人になったかなと」
ヤン「(笑)いやいやでも、似てますよね。」
久米「すごい似てる。横顔とかすごい似てる。お父さん(父親役の津嘉山正種? or 安藤サクラの父・奥田瑛二?)、ぶ男じゃないんだけど、俳優さんとしてはすごくいいし、もちろん新さんもいいしね。新さんて、なんにも知らない人が見たら人がいたら「あの人北朝鮮から帰ってきた人かな」って。映画で見てると。」
ヤン「ほんとうに。」
久米「新くんだとはわかっていたんですけど、「新さんに似ている俳優さんで、北朝鮮から帰ってきたやつかねこいつは」と。思ったくらいなんですよ。」
ヤン「リアルな存在感ですよね。本当に。私も「ここまで(リアル?)」と思う時が多々あって。撮影しながら。」
久米「キャステイングしたときの話を読むと、「何人だかわからないところが新くんにはあるから彼を選んだ、みたいなことおっしゃってましたよね。」
ヤン「はいはい。」
久米「あれ(リアルな存在感)は・・・なんなんですか?」
ヤン「(爆笑)・・・それは新さんに聞いてみなきゃいけないですけれども。」
久米「髪型といいなんといいね。」
ヤン「不思議な方です、本当に。」
久米「こういう風にかえってくるんだろうな「帰還事業」で(北朝鮮に)帰って25年ぶりに(日本に)帰ってきたらこんな感じなんだろうな、って思っちゃいましたもん。」
ヤン「うーん。新さん自身があまり先入観を持たない。ですから、この「かぞくのくに」のシナリオをもらったときも、「あ、「家族」の話だな。」と。で、「話が面白くて、そしてどういう映画になるのか予測がつかないからチャレンジしてみたい。」と思ったらしいんですね。で、役作りも北朝鮮から来た人の役だから、北朝鮮からの本をたくさん読んだり、資料を見たりとかはせず、私の話を聞いて、想像とか。逆に先入観を持たないように、引き算のような役作りをなさったらしいんですけど。いかにも25年ぶりにお兄ちゃんが帰ってくると、たとえば向こうの食糧事情も悪いだろうから背も低くてやせこけて、という風な俳優さんは選びたくなかったんですね。「ぽく」ない人を最初から考えながら書いてたんですけど、新さんぽい人いいな、とか思ってて、まさかご本人からOKいただけるとは思ってなかったんですけど。」
久米「すぐOKくれたみたいですもんね。」
ヤン「全キャスト私の第一志望で、もうプロデューサーと私の第一志望でみなさんからOKが来たんで、なんかもう信じられなくて。」

ヤン・イクチュンの「息もできなイイ話」

久米「あの−、今ラジオ聞いている方は「なんの話をしているんだ?」という方もいらっしゃるでしょうけど、以前このラジオでお話した「かぞくのくに」という、最初3つか4つの映画館で公開だったんですけど、評判が良くて現在(全国)41館で日本中で公開されている、その映画のお話をしている最中で、監督のヤンさんとお話をしているんですけど。」
ヤン「はい。ヤン・ヨンヒです。」
久米「いきなり核心に入っちゃってなんの話しているんだろうと思っている方もいらっしゃるでしょうが、世間の話なんてこんなもんですから。わかりやすい話ばっかりじゃないよと。ラジオで話すってーとみんながわかりやすい話をラジオはしてくれるかというと、それほどラジオは甘くないですからね。結構わかりづらい話もありますんで、これはおもしろいな、ってところをかいつまんで聞いていただければ。あのー、それであのー・・・北朝鮮からついてくる監視員がいらっしゃいましたよね。」
ヤン「はい。」
久米「僕はあの監視員の人がひどく気に入りました。あの俳優さん。」
ヤン「ヤン・イクチュンさん。唯一の韓国の俳優さんなんですね。」
久米「ですねー。」
ヤン「はい。もう、超売れっ子の」
久米「彼のおかげでね、「息もできない」も見たんですよ。」
ヤン「ほんとうに「息もできな」くなりますよね。」
久米「「Breathless(「息もできない」の英題)」を見たんですけど、あの新さんの演技もすごかったんですけど、ヤン・イクチュンさんの何もしてない演技ってのは感心、っていうか驚いたんですけど、あの人には「何をしろ。」と言ったんですか?」
ヤン「逆になにも言ってないくらい、私なにも監督の仕事してないくらいに。役者さんたちがすばらしいので、新人監督が「ああ動いてこう動いてください」というのは失礼だなと。それを言わなくてもいい俳優さんたちなので、逆に最低限のこと、「こういうのはやめてください。」とか「ここはこう抑えてください。」とかそういうことは言いました。ヤン・イクチュンさんは北朝鮮の訛りをマスターするのが大変で。」
久米「だったんですってねー。」
ヤン「それに関しては私の望む通りに、完璧にして頂きましたけれども、本人は役者としてのプライドもあるので、韓国でも公開されますから、・・・あと「脱北」した方が見ても違和感がないように、くらいに演じたいというので相当がんばってマスターしてきてくださいました。」
久米「だから、最初に「かぞくのくに」を見たときには、「これは・・・本物の監視員の人を使ってるんじゃないか。」と思ったくらいなんですよ。きっとこうなんだろうと。」
ヤン「映画のために私が拉致してきたみたいじゃないですか。(一同爆笑)」
久米「そうそう逆ナンみたいなかたちで(笑)。ホンモンだろうこれはーって。新くんも「本物だろー?」と思ったくらいにこの監視員ってこれ、だってこれ北朝鮮から来たらこうだよ、って思ったくらいなんですけど。パンフレット見てヤン・イクチュンさんの役作りみたいな話をしてるんですけど、これはねー、ぼくびっくりして。ヤンさんは役作りに関してこう話してるんですね。
『この映画で「ヤン同志」という役を頂いたのですが、俳優というのは決して「キャラクター」になるのではないと私は考えています。つまり、「ヤン・イクチュン」として常に「自分だったらどうするだろう。」というのが演じることの中心にある。劇中においてもリエやソンホではなく、サクラさん、新さんとして接していました。』
 つまり、サクラさんと新さんというモデルあがりの(笑)俳優さんに接するように、普通に接しているだけなんだよ、と。ヤン同志という役をやっていたんじゃない、という話をしていてすべて僕の考えが「逆転」させられてしまったんですけどね。なんだ普通にやってんだ、日本で知り合った俳優個人とつきあってるようにして、劇中で生きただけなんだというのを聞いて、おそろしく驚いたんですけど、あの人いくつなんですか、年齢(とし)。」
ヤン「38くらいですかね。39・・・7?新さんとそんなに変わらないですよね。」
久米「37?でこの番組で「ヤン、いくちゅん(いくつ)?」と言ってたんですよ。年齢不詳でねー、あいつは「ヤン、いくちゅん?」とずっと言ってたんですけど。37かあ・・・。「息もできない」のDVD(見た)際のメイキングがあって、彼キャップかぶってね、話してると20代のぼうやみたいで、ますます年齢不詳になっちゃって。」
ヤン「でもね、本当にオトナで、苦労人でもありますので、「息もできない」は自分の話ですから、トラウマというかね、DVのある家庭で育って高校を出て俳優になって、その後専門学校で演技の勉強するんですけど、もうたたき上げの・・・「大部屋俳優から」という感じのたたき上げの俳優さんだし、監督は一作だけ、「息もできない」だけしてますけれど、たくさん端役でたくさん韓国映画に出てるんですね。だからいろーんな監督さんを見ているんですよね。いろんな現場を。で、私、今回劇映画はじめてですから、新人監督で撮影に入る2週間前に韓国から来てくれたんですね。で、いろんな話をして。ほかの役者さんに会う前にまず「北から来た監視人」についてこういう設定、こういう人生を歩んできた男だと思っている、みたいな話を私がしている最中、ぽろぽろとどうしても韓国語で話すので、ちょっとこう私が10歳くらい上なんですけど「ちょっと初めてだからいろいろ、自信なくてさー」みたいな話を監督として言っちゃいけないのに本音でお酒飲みながら言っちゃうんですね。で、そういう時に彼が言ってくれた言葉が・・。「ヤンさん」・・・両方(ヤン・ヨンヒ/ヤン・イクチュン)ヤンですけど(笑)。」
久米「(ヨンヒさんが)ヤン、(イクチュンさんが)ヤンって言えないですね。(笑)」
ヤン「そうなんですよ。で、「監督に必要なものは何だと思いますか?」って聞いてきて「うーん?」って言ったら「監督に必要なのは技術でもなく、経験でもなく、『生き様』なんです。」って、37の人がね(笑)、47のお姉さんに教えてくれるわけですよ。」
久米「ほお。」
ヤン「『だからヨンヒさんは大丈夫。それなりの生き様持ってるから。でーんとして立ってればいいんです、現場に。で、ぼくらがわからないことがあれば聞くから』って。『それ以外はデーンと立ってくれていればいいから。』」
久米「・・・そうかー。」
ヤン「泣きそうになりました。」
久米「・・・ねえ。」
ヤン「ええ。自分がすごく子供みたいに思えて、いろんな意味で「おっきい」奴ですね。本当に。もう今は、弟みたいにお兄ちゃんみたいに「イクチュン、イクチュン」言ってますけど。」
久米「野球の監督でもね−、ちゃんと胸張って立っててくれりゃいいんですよ、って人いますもんねー。」
ヤン「(爆笑)。」
久米「監督ってそういうもんで、ちゃんとあんたの生き様でね、ベンチの中央座って、たまにタバコでも吸っててくださいよ、というのはね。だってヤン・イクチュン(監督)の「息もできない」って映画だって、結局彼がやった演技ってのは漢江(ハンガン)の川っぺりで泣いているとこだけで、あとタバコ吸ってるだけじゃないですか(笑)。何が演技だかわかんないけど、いい役者だなー、とは思って。それがそうなんだな、と思って。」
ヤン「ええ、ええ。」

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キューポラのある街」から見た「地上の楽園」北朝鮮

久米「で、ラジオ聞いている方に、ラジオ聞いてて良かったという豆知識というかね。ヤンさんが自分のご家族のお話を元に作った初めての劇映画なんですけど、えー「キューポラのある街」というのがよく出てくるんですけど。僕も高校くらいに吉永さんが大学で2期下だったんで、小百合さんが出るっていうんで。川口を舞台にした鋳物工場がいっぱいある街、キューポラって鋳物をつくる時の小型溶鉱炉の煙突みたいなのをキューポラと呼ぶんですけど、浜田光夫さんと吉永小百合さんが出ていて、そこで在日の人で非常に虐げられていて差別されている女の人がいて、街の中でひどい目に遭ってるんですけど、映画の最後で汽車に乗って新潟に行くシーンがあって、菅井きんさんという方がその役をやってるんですけど、それがあのー、「夢の国北朝鮮へ行くんだ。」って言うんでニコニコしながら地上の楽園へこれから出発する、というのがひとつの救いになってるって映画だったんですけど、その北朝鮮の「帰還事業」ってのがあったんですよ。1950年代の後半から84年くらいまで延々続いたんですけど。で、それは日本にいる在日の方々が「地上の楽園の北朝鮮が呼んでくれて、みなさん向こうにいけば仕事もあるし、家もあるし、収入も保証されるから来ませんか?」って声をかけて、日本でもそれを支援する文化人もいたり、システムもあったりして、大勢渡っていったんです。」
ヤン「9万4000人弱行きましたね。すごい数です。」
久米「(スタッフが調べた?)9万3340人?59年から84年の間に渡っていったんですけど。もう59年から始まったんですけど、基本的に新潟から船で行くようになって、途中から万景峰号という船で行くようになったんですけど、59年に始まって「すばらしいよ」と行った人から返事が来て、「本当にすばらしいんだ。じゃあ行こう行こう」って行ってたんだけど、途中から「実はそうでもないらしいよ。」という話になって中だるみになったんです、この事業は。そのときに、その中だるみになった帰国事業をなんとか盛り上げようじゃないか、というんで、それはどういう風に働いたかわかりませんけど、今日のお客様のヤンさんにはお兄さんが三人いらっしゃって、男の子が3人いたんですけど、そのうちの二男坊と三男坊が「自ら行く」って言い出したんです。で、これはお父様が朝鮮総連のナンバー2でいらっしゃいましたから。」
堀井「ヤンさんのお父さんが、ですか?」
ヤン「私の父です。」
久米「自分の息子2人が北朝鮮に自ら行きたいということを言い出して帰還事業に参加するっていうんだったら、いいんじゃないかって。下の子、そのとき中学生ですよ。」
堀井「ええー・・・?14歳とか?」
ヤン「14歳ですね。」
久米「次男と三男が行ったんですよ。1971年に。で、行っちゃったんですね。それから1年後にね、金日成が還暦になるんです。今の金正恩のお父さんの金正日のそのお父さんの金日成ってのは素敵だったんですけど、えー、北朝鮮を建国した英雄と言われていますけど、これはインチキだったんですね。」
ヤン「んふふ(自嘲気味に)。」
久米「「幻の英雄」みたいに・・・ま、んなこたあいいんです。金日成が還暦になったときに、信じれないんですけど還暦のお祝いをやるわけです。1972年に。その還暦のお祝いに世界中からいろんなプレゼントを集めようとしたわけです。その「プレゼント」の中に「人間」が入っていた。」
堀井「んー・・・?(←ピンときていない)、若い男のひと?」
久米「その中のひとりに、唯一日本に残っていたご長男のお兄さんが72年に・・・」
ヤン「そうですね。指名されて行きましたね。」
堀井「でもご本人たちは行きたくて、というか夢を抱いて?」
ヤン「下の二人はまだ14、16ですからなんとなくイメージとしては日本では貧しいし、大学・・・当時は在日が本名で就職をするとか、日本の大学に行くというのは本当に難しい時代で。」
久米「次男の方は建築家になりたかったんですけど。」
ヤン「そうですね。本当にね、焼き肉屋の主人になるか、朝鮮学校の先生になるか、総連の組織の中で仕事をするとか、パチンコ屋に就職するとか、そういう同胞の企業以外は難しいとか言ってた時代でしたから。」
久米「だから、わからなくはないんです。未来がないから。日本にいたって。学校にも行けないし。就職もないし。で、次男と三男が行って、長男がご指名ですよね。」
ヤン「そうですね。次男と三男もね、行く直前になってぐらついたらしいんですけどね。本当に行っていいのかな、っていうね。でも、もう・・_もう後に引けないっていうか、もう大騒ぎの中「ばんざーい!」ていう、もう極端に言ったら「出征」に近いような。「ばんざーいばんざーい!」ってみんなが言うから、じゃあ最後まで行かなきゃかな、ていう感じで押されて行ったんですけど。」

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ヤン・ヨンヒ(6歳)が見た「帰還事業」

久米「次男と三男が行くとき、新潟までお見送りに行ったじゃないですか。」
ヤン「ええ。わたし、6歳でした。」
久米「よくわからなかったんですよね。お兄ちゃんたちがいなくなっちゃうっていう。」
ヤン「そうですね。断片的に「絵」でくっきり覚えているっていうかはっきり覚えているっていうかね、新潟の港に岸壁から人が落ちるんじゃないかというくらいいっぱい人がいて。」
久米「あれ、すごいですよ。離れたところから撮った写真があって、岸壁に人がびっしり。こないだの銀座の(メダリストの)パレードみたいになってんの。オリンピックの。もうぎっしりと集まってて、船もね岸壁の方に人が寄ってるから、少し傾いているんです、明らかに。でっかい船が。あれはすごかったですね。」
ヤン「紙吹雪と紙テープと、「金日成将軍の歌」っていうブラスバンドの歌がどんどん鳴って、とにかくみんな泣きながら「ばんざーい!ばんざーい!」って言ってるんですね。で、なにが「ばんざい」なのか。私は6歳の女の子で、おにいちゃんが遠くに行っちゃうのがすごくイヤだったので、当時私の周りにいた、兄を見送っていた兄たちの友人の方々に、最近会ったんですけど、「あの時ヨンヒちゃん、船をにらみつけてたよ」って言ってましたね。」
久米「ああ・・・」
ヤン「あの時からそうだったんだ、ってね。なんか反発する子だったのかな、っていう感じもしますけど。私はそこまで覚えてないですけど、こんなに大騒ぎするってことは、お兄ちゃんたちはよっぽど遠いところへ行くんだな、っていうのがひとつと、よっぽど長い間帰ってこないんだな、と。ただの別れじゃないわけですよね。本当に死ぬまで会えないのかな、くらいの別れのセレモニーになってたんで、もうすごかったですね。人人人、歓声ていうか怒号、紙吹雪、ブラスバンドの音という感じで、本当にいつの日か、たくさんお金を使える監督になったら、あのシーンは再現したいと思ってますね。その時までは映画撮り続けなきゃ、くらいには思ってますね。」

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祖国から来た無情な写真と「かぞく」の現在

久米「お父さんは総連の運動やってますから、ほとんど収入がないわけですよ。だからそれまではお母さんが昔はずっと、ミシンのお仕事して、そしてお店をまかされるようになって、ハンバーグがうまかったらしいんですけど、そのお店が大繁盛になったらしいんですけど、さすがのお母さんも長男坊まで行くようになっちゃって、3人行っちゃったあとお母さんもお考えが変わって・・・これよくわかるんですけど、北朝鮮が如何にすばらしい国か、っていうことを日本にいる在日の方に宣伝するっていうか、そういうお父さんの総連の仕事をお手伝いするようになって、お父さんとお母さんはそろいもそろって総連の仕事に全力を上げるようになるんですけど。」
堀井「うーん・・・。」
久米「ずいぶん経ってから、北から写真が来るんですよね。お母さんのところに。」
ヤン「そうですね。息子たちの写真が送られてくる。」
久米「そうするとみんな痩せちゃってね。ガリガリに。ひどい写真だったって。」
ヤン「私はその写真を見ましたから。最初、誰かわからなかった。「誰それ?」って。でよく見ると、「ん?お兄ちゃん?似てるけど・・・誰だ?」って。すると母がその場で、ビリビリって。なんかこう二つに四つに、じゃなくて、もう本当に粉々にっていうくらい写真を破っちゃって。「この写真はお父さんに言うたらあかんで。忘れなさい。」って言って。破って捨てちゃったんですよ。」
久米「夫婦そろって如何に北朝鮮がすばらしい国かっていうことをみんなにこう運動としてやってるときに、そこへ行ってしまった息子たちのガリガリに痩せた写真を送ってきて、ってことで、それはお父さんには見せられない。」
堀井「はい。」
久米「また、お母さんの葛藤というかつらさというかね、なんのために自分たちは子供を産んで生きてきたんだろうというね、まさに家族とはなにか、というね。」
堀井「もう信じるしかないですもんね。行ってしまったら。」
ヤン「まあ、皮肉なことに、最後に指名されて行った兄が、その後躁うつ病に長く患いまして、3年前に向こうで死にましたけれども。あのー、原作本を細かく読み込んでいただいてありがとうございます。」
久米「お父さんが死んだときとご長男が亡くなったときが同じ年なんですよね。」
ヤン「そうですね。ええ、3年前です。」
久米「お父さんもアレですよね、最後にちょっとだけ後悔している、自分のやったことをね。早まったかな、というね。」
ヤン「あのときはここまでなるとは思わなかった、ちょっと早かったかな、というのを、ポロポロと話した瞬間を私がビデオカメラに撮って、「ディア・ピョンヤン」というね、ドキュメンタリーで発表してしまったので、私は北朝鮮に入国禁止に名誉なことになってしまって、今ちょっと家族に会えないんですけど、この映画でもっと会えないんでしょうかね。」
久米「と思いますね。」
ヤン「いつになったらお兄ちゃんたちと一緒に見られるんだろうと思いますけどね。」

兄~かぞくのくに

兄~かぞくのくに

韓国は日本と同じ「島国」である。

久米「僕、長い間ドイツの親善大使というのをやってまして、ドイツ統一の日はいまだにドイツ大使館で盛大なパーティが行われてまして、良かったな統一できてってみんなで乾杯するんですよ。毎年。11月3日。で、平壌も一度行ったことがあるんですけど、北と南の統一ってやつは北と南両方の方々が「もうすぐだ。」って楽観的に言う方が多いんですけど、「もうすぐだ。」と言いながら「当分ダメだ」という意味でもあったりして、これはどういうことになるんですかねー。」
ヤン「もう、統一されなくても、せめて、Eメールができるとか電話ができるとか人が行き交うとか、じゃないと、家族に会えないまま、南北もそうですし、北と日本もそうですし、離散家族が、家族の安否も確認できないまま、祖父母、親たちは亡くなっていきますんで、ちょっとなんとかしたいですよね。」
ヤン「イクチュンさんもねー、北朝鮮という国がある限り韓国は(半島ではなく)日本と同じで島国だ、って。本当はね平壌に住んでいたらね、車でパリに遊びに行けるんだよ?陸続きなんだから。パリ行ったりどこだって行けるのに、38度線のせいで行き止まりだから、本当に島と同じだ、ってことをおっしゃってて、せっかくユーラシア大陸にくっついてんのにな、と思ったりするんですよね。この映画を見ることは、日本の勉強にもなりますんで、是非。今日は「かぞくのくに」キャンペーンで(笑)」
ヤン「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
久米「今日は本当に忙しい中、ありがとうございました。」
堀井「本日のゲストは、映画監督のヤン・ヨンヒさんでした。ありがとうございました。」